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福島地方裁判所郡山支部 昭和55年(ワ)144号 判決 1984年7月19日

原告

須貝久

原告

鈴木重夫

原告

髙橋利衛

原告

永田ヤイ子

原告

明石まゆみ

原告

永田美智代

原告

永田学

右原告ら訴訟代理人

安藤裕規

安藤ヨイ子

山下登司夫

友光健七

畑江博司

小野寺利孝

二瓶和敏

戸張順平

服部大三

川人博

滝澤修一

仲山忠克

大堀有介

安田純治

斎藤正俊

鵜川隆明

被告

日本電工株式会社

右代表者

松田信

右訴訟代理人

梶谷玄

梶谷剛

岡崎洋

大橋正春

田辺雅延

稲瀬道和

主文

一  被告は、

1  原告須貝久に対し八二三万五三三六円と内金七四八万六六六九円に対する昭和五四年九月二二日から、内金七四万八六六七円に対する昭和五九年七月二〇日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による金員

2  原告鈴木重夫に対し一五一三万六八五七円と内金一三七六万〇七七九円に対する昭和五五年六月一七日から、内金一三七万六〇七八円に対する昭和五九年七月二〇日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による金員

3  原告髙橋利衛に対し一四三五万三一〇八円と内金一三〇四万八二八〇円に対する昭和五五年六月一七日から、内金一三〇万四八二八円に対する昭和五九年七月二〇日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による金員

4  原告永田ヤイ子に対し二二〇万円と内金二〇〇万円に対する昭和五四年一一月九日から、内金二〇万円に対する昭和五九年七月二〇日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による金員

5  原告明石まゆみ、原告永田美智代及び原告永田学に対しそれぞれ一四六万六六六六円と各内金一三三万三三三三円に対する昭和五四年一一月九日から、各内金一三万三三三三円に対する昭和五九年七月二〇日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、原告須貝久と被告との間でこれを八分し、その七を同原告の、その一を被告の負担とし、原告鈴木重夫と被告との間ではこれを七分し、その六を同原告の、その一を被告の負担とし、原告髙橋利衛と被告との間ではこれを四分し、その三を同原告の、その一を被告の負担とし、原告永田ヤイ子、原告明石まゆみ、原告永田美智代及び原告永田学と被告との間でこれを一五分し、その一四を同原告らの連帯負担とし、その一を被告の負担とする。

四  この判決は原告ら勝訴部分に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告ら

1  被告は、

(一) 原告須貝久に対し、六一五六万三九一三円とこれに対する昭和五三年二月七日から支払済みまで年五分の割合による金員

(二) 原告鈴木重夫に対し、一億〇一一三万二九九二円とこれに対する昭和五四年五月二九日から支払済みまで年五分の割合による金員

(三) 原告髙橋利衛に対し、五五八五万八三三一円とこれに対する昭和五四年一二月三一日から支払済みまで年五分の割合による金員

(四) 原告永田ヤイ子に対し、二七二四万一九六九円とこれに対する昭和五四年一月一日から支払済みまで年五分の割合による金員

(五) 原告明石まゆみ、原告永田美智代、原告永田学それぞれに対し、一六六九万四六四六円とこれに対する昭和五四年一月一日から支払済みまで年五分の割合による金員

を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  被告

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  原告の請求の原因

一当事者

1  被告は、昭和三八年一二月、日本電気冶金株式会社と東邦電化株式会社とが合併して発足した合金鉄(フェロアロイ)及び金属珪素の製造販売等を業とする会社である。被告の郡山工場(以下、「郡山工場」という。)は、昭和二六年七月東邦電化株式会社の合金鉄工場として操業を開始した。

2  原告須貝久(以下、「原告須貝」という。)、原告鈴木重夫(以下、「原告鈴木」という。)、原告髙橋利衛(以下、「原告髙橋」という。)及び永田政治(以下、「亡永田」という。)は、いずれも被告との雇傭契約による被雇傭者として郡山工場で合金鉄、金属珪素の製造に従事していた者であり、原告永田ヤイ子は亡永田の妻、原告明石まゆみ、原告永田美智代及び原告永田学は亡永田の子である。

二郡山工場における粉じん作業の実態

郡山工場ではマンガン鉱石、珪石等を電気炉(以下、単に「電炉」ともいう。)で加熱して、マンガン鉄、珪素鉄、金属珪素を生産するが、原告須貝、原告鈴木、原告髙橋及び亡永田(以下、「原告須貝ら」という。)が郡山工場で右生産に従事していた当時の基本的な作業工程は、①鉱石運搬・洗浄作業(鉱山で採取されトラックや貨車で運ばれてきた鉱石=珪石を貯鉱場から工場建屋内に運搬し、洗浄して、鉱石に付着している土などを洗い流す作業)、②破砕作業(鉱石を電炉内で熔解しやすくするため破砕する作業)、③計量・配合作業(マンガン鉄の場合、破砕された鉱石を一定量取り出し、他の鉱石等と混合する作業)、④電炉作業(計量、配合された鉱石を電炉上部において電炉内に投入したりする上回り作業及び電炉内で熔解した金属を電炉底部の開口部=タップ口から取り出す下回り作業)、⑤研掃作業(型枠に入れられ固まつてできた金属珪素塊に付着している不純物を、砂利を吹き付けることによつて除去する作業)、⑥試料調整作業(右①または②に併行し、右③の前提として行われるもので、採掘された鉱石の含有成分を分析するための試料を作出する目的で、搬入された鉱石につき貨車毎に一部ずつ取り出したうえ、破砕し、すりつぶして微粉末状にする作業)で、いずれの作業工程においても粉じんが大量に発生した。

三原告須貝らの経歴、じん肺等罹患の事実

原告須貝らは、後記のとおり被告会社に入社後その仕事に従事していて粉じんにさらされたために、いずれも健康を害したものである。

1  原告須貝

(一) 原告須貝(大正一一年六月一八日生)は、昭和一一年三月、福島第三高等小学校を中退(最終学歴)し、①昭和二五年一二月被告の前身である北海電気興業株式会社に入社し、昭和三一年一一月ころまで商ノ倉鉱業所(福島県相馬郡所在)で鉱山作業に、②同年一二月から昭和三八年まで郡山工場でマンガン鉱石の計量配合作業に、③同年から昭和四七年まで、同工場で電炉作業に、④同年ころから昭和五〇年ころまで、被告とチッソ株式会社との合弁会社である日本珪素工業株式会社水俣工場に出向して電炉作業に、⑤同年から昭和五三年まで郡山工場で電炉作業に従事し、同年一〇月七日に退職した。

(二) 同原告は、昭和五二年四月の定期健康診断で肺機能の異常が発見され、昭和五三年二月七日付でじん肺管理区分管理四と決定された。

2  原告鈴木

(一) 原告鈴木(昭和六年一〇月二日生)は、昭和二一年三月、日和田尋常高等小学校を卒業(最終学歴)し、①昭和二六年七月、東邦電化株式会社に入社し、昭和二七年四月ころまで郡山工場で電炉作業に、②昭和二九年四月ころから昭和三一年一月ころまで鉱石運搬洗浄作業に、③同月ごろから昭和四〇年四月ころまで試料調整作業に、④同月ころから昭和四七年六月ころまで研掃作業に、⑤同年七月ころから昭和五三年一〇月七日まで電炉作業に従事し、同日退職した。

(二) 同原告は、昭和二七年四月から昭和二九年四月ころまでの間肋膜炎で休職したことがあるが、昭和五三年八月二一日の検査の結果じん肺に罹患していることが判明し、昭和五四年四月一一日珪肺に肺結核が合併していることが判明し、同年五月二九日付でじん肺管理区分管理三ロと決定され、昭和五六年には右腎結核、前立腺結核に罹患していることが判明した。

3  原告髙橋

(一) 原告髙橋(大正一〇年一二月一五日生)は、昭和一一年三月、横須賀市第二小学校高等科を卒業(最終学歴)し、①昭和二六年三月ころ前記北海電気興業株式会社に入社し、昭和三四年八月まで高ノ倉鉱業所において鉱山作業に、②同年九月ころから昭和五三年一〇月ころまで郡山工場で研掃作業に従事し、同月七日に退職した。

(二) 同原告は、昭和五四年八月二二日付でじん肺管理区分管理三ロと、同年一二月一七日付で同四と決定された。

4  亡永田

(一) 亡永田(昭和三年九月二二日生)は、昭和一八年三月、尋常高等小学校を卒業(最終学歴)し、①昭和三〇年四月、前記東邦電化株式会社に入社し、昭和五二年七月二〇日ころまで郡山工場で電炉作業に、②同年夏から昭和五三年一〇月七日まで同工場の守衛兼夜警にそれぞれ従事し、同日退職した。

(二)(1) 亡永田は、昭和五三年八月二三日のじん肺健康診断で肺機能の再検査が必要と指摘され、同年一〇月及び一二月に行われた検査の結果に基づき翌五四年二月、じん肺管理区分決定に関する申請がなされた。しかし、その後症状が悪化し、気管支肺炎、兼じん肺症、肝不全で治療を受けたものの、同年三月三日に死亡した。

(2) 死亡によりじん肺管理区分の決定は留保されたが、労働基準監督署は管理四に準じて療養補償及び休業補償を支給した。

(3) 死亡に至るまでのじん肺管理区分は次のとおりであつた。

昭和四二年 管理二

昭和四三年、四五年、四七年 各管理一

昭和五〇年、五一年、五二年 各管理二

四亡永田の死亡とじん肺との因果関係

1  亡永田の直接死因は消化管からの大量出血であるが、この消化管出血の原因は肝硬変症より生じた食道静脈瘤の破裂ではなくて、じん肺に起因する消化性潰瘍であると解される。すなわちじん肺に合併した肺炎によつて呼吸不全をおこした結果、右消化性潰瘍が急性増悪し、もしくは多発性潰瘍を惹起し、大量出血を発生させ、亡永田を死に至らしめたのである。

2  仮に、亡永田の直接死因である消化管出血をもたらした原因が、当時亡永田が罹患していた肝硬変症であるとしても、慢性肺疾患であるじん肺は、肺性心を惹起してうつ血をもたらし、遂には肝硬変症を惹起させ、あるいはじん肺に合併して生じた感染症としての気管支肺炎が肝硬変症を悪化させる要因となり、ひいては亡永田の死亡の引き金になつたことは明らかである。

五被告の責任

被告は、原告須貝らをして前記粉じん作業に従事せしめていたのであるから、粉じんによる害からその生命、身体の安全を保護するために作業場における粉じんの発生拡散そのものを防止抑制し、あるいは十分な防じん除じん装置を設置し、従業員に対し、適切な保護具(マスク)を支給し、必要な安全教育や、適切な健康診断を実施すべきであつたのに、かかる措置を怠つた。その結果原告須貝、原告鈴木、原告髙橋及び亡永田をじん肺症(原告鈴木については更に肺結核、腎結核、前立腺結核)に罹患させたうえ、労働能力を完全に喪失せしめ、かつ亡永田については死亡するに至らしめたものであるから、労働契約上の債務不履行により、原告らの後記損害を賠償する責任がある。

六損害

1  原告須貝らの被害の実態

(一) 原告須貝

同原告は、昭和四〇年代初めころから咳や痰の自覚症状を訴え、同時に日常生活の中において行動能力が低下し始めた。昭和四五年ころからは咳や痰の回数が増加するとともにそれが恒常的になり、昭和五〇年ころからは一時間に五、六回の痰が出、体力も急速に衰え、倦怠感や息切れのため、仕事もままならなくなつた。昭和五三年二月七日じん肺管理区分管理四と認定されて以来、珪肺労災病院への定期的な通院治療を余儀なくされ、昭和五三年四月以降休業状態である。退職後も咳や痰との闘いが続き、昭和五四年一月には激しい発作に襲われて呼吸が全くできなくなる状態に陥り、同年二月に入院するまでの間右のような発作が七、八回続いた。その後は入、退院を繰り返し、自宅療養中も無為な生活を強いられている。同原告はかかる生活に耐えられず自殺すら考えたこともあるのであつて、その肉体的、精神的苦痛は計り知れない。

(二) 原告鈴木

同原告は、昭和四五年七月のじん肺健康診断で痰の症状を訴え、昭和五三年春ころから咳や黒つぽい痰が頻出するとともに、息切れを感じるようになり、被告の人員整理で退職した同年一〇月ころからは咳のため夜眠られないことがしばしば続くようになつた。翌五四年じん肺に肺結核が合併していることが判明したため同年四月一三日から入院し、現在に至つているが、その間同年五月二九日じん肺管理区分管理三ロの決定を受け、昭和五六年には右腎結核、前立腺結核と診断されて右腎瘻造設等の手術を受け、現在体外膀胱を使用しなければならない状態で、合併症に悩まされている。五年間になろうとする入院生活によつて受けた本人及び家族の精神的苦痛は計り知れず、経済的負担も大きい。

(三) 原告髙橋

同原告は、昭和五一年九月のじん肺健康診断で呼吸困難を訴えた。昭和五三年三月ころから咳や痰に悩まされるとともに息切れを感じ、郡山市内の病院を転々としたが、いずれもじん肺専門医でなかつたためぜん息等の病名で治療を受けていた。咳や痰は一向に治まらず、翌五四年五月、珪肺労災病院で受診したところ、じん肺管理区分管理四相当と診断され、昭和五四年八月二二日管理三ロと、同年一二月一七日管理四との決定を受けた。以後現在まで通院ないし入、退院を繰り返している。この間も常時咳や痰に苦しみ、昭和五七年ころからは、息切れのため自転車に乗つたり、階段を昇ることも思うにまかせず、行動能力は極端に制約されており、その精神的苦痛は計り知れない。

(四) 亡永田

亡永田は、昭和四二年一一月のじん肺健康診断で管理二と判定され、昭和四五年当時にはすでに痰の自覚症状を申告していた。翌四六年ころからは身体のだるさ、激しい咳などじん肺の症状が顕著となり、仕事が辛いと家族に訴えるようになつた。昭和五二年ころには咳や痰も頻出し、同年夏には息切れも激しくなつた。昭和五三年に自宅待機するようになつてからは横臥する生活が続き、同年一〇月七日退職を余儀なくされた。退職後も症状の進行は激しく、常時咳や痰に苦しめられ、行動範囲は家の中だけという生活になつた。昭和五四年二月九日入院し、同年三月三日死亡した。このように亡永田は、じん肺罹患後は常時咳や痰と闘い、苦しい生活を強いられながら死に到つたもので、その苦しみ、悲しみは計り知れない。

2  逸失利益

(一) 原告須貝らの労働能力の喪失

原告須貝は、遅くとも休業状態に入つた昭和五三年四月以降、原告鈴木はじん肺、結核合併のため入院した後の昭和五四年五月以降、原告髙橋は遅くとも管理四の決定を受けた昭和五四年一二月以降、亡永田は遅くとも管理四相当の肺機能低下をきたし肺機能の著しい障害を受けていた昭和五三年一〇月以降それぞれ労働能力を完全に喪失していた。

(二) 算定の基礎となる収入額

原告須貝らは、在職中、被告の債務不履行によりじん肺等に罹患し、労働能力を喪失したのであるから、その労働能力の財産的評価(逸失利益の算定)は在職時の賃金を基礎としてなされ、また停年後における逸失利益の算定についても、停年時における労働能力の財産的価値を前提として就労可能年数まで、その八〇%を基礎としてなされるのが相当であり、かつ停年時まで年六%の賃金上昇率を見込んで計算されるべきである。

(三) 原告須貝らの逸失利益額

(1) 原告須貝 二八九〇万七〇〇二円

同原告は、労働能力を喪失していた昭和五三年四月当時満五六歳で、その就労可能年数は、昭和五三年四月一日以降満六七歳までの一二年間であるところ、その当時の収入(但し、通常勤務をしていたときに近い昭和五二年の収入を基準とする。)は年額三四〇万一九二二円であつたから、就労可能期間中の各年毎の年収(但し、被告においては満五七歳になつた後に迎える三月と九月のうち早く来る月をもつて停年とされており、原告須貝は大正一一年六月一八日生まれであるから昭和五四年九月をもつて停年となるので、同年一〇月以降六七歳までは停年前の年収の八〇%とする。)を算出し、口頭弁論終結時以降のホフマン係数を乗じて中間利息を控除すると、逸失利益現価は別紙(一)のとおり二九二二万七四〇二円となる。

右のうち、既に支払済みの昭和五四年四月分から同年九月分までの六ヵ月間の給与の二〇%に相当する額及び栄養代六万円合計三二万〇四〇〇円を控除すると二八九〇万七〇〇二円となる。

(2) 原告鈴木 七三二〇万三一七五円

同原告は、労働能力を喪失していた昭和五四年五月当時満四七歳で、その就労可能年数は昭和五四年五月一日以降満六七歳までの二〇年間、また当時の年収(昭和五三年の年収を基準とする)は三六一万四五〇三円であり、年六%の賃金上昇率を見込んだ就労可能期間中の各年毎の年収(但し、同原告は昭和六四年三月をもつて停年となるから同年四月以降六七歳までは停年前の八〇%とする)を算出し、口頭弁論終結時以降のホフマン係数を乗じてそれぞれ中間利息を控除すると、逸失利益原価は別紙(二)記載のとおり七三二〇万三一七五円となる。

(3) 原告髙橋 二二三二万〇四六六円

同原告は、労働能力を喪失していた昭和五四年一二月当時満五八歳で、その就労可能年数は昭和五四年一二月一日以降満六七歳までの九年間であり、同人の当時の年収(昭和五二年の年収を基準とする)は三二〇万七九一一円であつたから、就労可能期間中の各年毎の年収(但し、原告髙橋は昭和五四年三月をもつて停年となるので右基準額の八〇%とする)に、口頭弁論終結時以降のホフマン係数を乗じてそれぞれ中間利息を控除すると、逸失利益は別紙(三)のとおり二二三二万〇四六六円である。

(4) 亡永田 四三三〇万二二二五円

亡永田は、昭和五三年一〇月の時点で労働能力を喪失していたもので、昭和五四年三月三日じん肺により死亡するに至つた。右労働能力喪失時亡永田は満五〇歳で、その就労可能年数は昭和五三年一〇月一日以降満六七歳までの一七年間であるところ、同人の右当時の年収(昭和五三年の年収を基準とする)は三五六万二五七三円であり、年六%の賃金上昇率を見込んだ就労可能期間中の各年毎の年収(但し、同人は昭和六〇年九月をもつて停年となるから同年一〇月以降六七歳までは停年前の八〇%とする)を基礎とし、死亡時以降三〇%の生活費控除をしたうえ、口頭弁論終結時以降の分についてはそれぞれに各年毎のホフマン係数を乗じて中間利息を控除すると、亡永田の逸失利益は別紙(四)記載のとおり四三三〇万二二二五円となる。

3  慰謝料

前記1の事実のほか諸般の事情を総合すると、原告らの肉体的精神的苦痛を慰謝するには、原告須貝、原告鈴木及び原告髙橋につき三〇〇〇万円、亡永田につき二〇〇〇万円をもつて相当とする。

4  被相続人亡永田に関する相続と相続人ら(以下、「原告永田ら」という)の固有の慰謝料請求

(一) 亡永田は前記2、3記載の合計六三三〇万二二二五円の損害を被つたが、昭和五四年三月三日死亡したので、その相続人である原告永田ヤイ子は配偶者として右損害の三分の一の賠償請求権を、原告明石まゆみ、原告永田美智代、原告永田学は子として各自右損害の九分の二の賠償請求権を相続により取得した。

(二) 原告永田らは、亡永田のじん肺罹患により、家族として多大の精神的損害を被つたうえ、同人の死亡によつて最愛の夫あるいは父を失つたのであるからその精神的苦痛ははかり知れず、これを慰謝するには、原告永田ヤイ子において五〇〇万円、原告明石まゆみ、原告永田美智代、原告永田学においてそれぞれ二〇〇万円をもつて相当とする。

5  弁護士費用

原告らは、いずれも各自の請求損害額の約一割を本訴の第一審判決言渡時に原告ら訴訟代理人に支払う旨約した。原告各自の弁護士費用額は左記のとおりである。

原告須貝 五五九万六七一九円

原告鈴木 九一九万三九〇八円

原告髙橋 五〇七万八〇三〇円

原告永田ヤイ子 二四七万六五四二円

原告明石まゆみ、原告永田美智代、原告永田学 各自一五一万七六九五円

七原告永田らの災害補償協定に基づく補償請求

1  亡永田の補償請求権

被告会社は、昭和五一年七月二一日、原告須貝らも在職中所属していた日本電工労働組合連合会との間で、労働協約およびその付属協定を締結しており、そのなかに災害補償協定があるところ、亡永田は、前記のとおり、遅くとも昭和五三年八月ころには管理四相当の肺機能障害を負つていたものであるから、右認定一二条一項の「業務上の疾病にかかり……身体に障害が残る場合」に該当し、同条二項の一ないし三級の障害者に相当するものとして、昭和五三年一〇月末日付で被告に対し、一二〇〇万円の補償請求権を確定的に取得したというべきである。

2  相続

一二〇〇万円の右補償請求権について、原告永田ヤイ子は三分の一、原告明石まゆみ、原告永田美智代、原告永田学は各自九分の二の割合で相続により取得した。

3  補償請求権の行使

原告永田らは、被告に対し、本訴提起をもつて右支払の催告をした。

八結論

よつて、原告らは被告に対し、債務不履行による損害賠償請求権(但し、原告永田らについては、一部予備的に災害補償協定による補償請求権)に基づき、原告須貝において、昭和五三年四月以降の分の損害の賠償として六一五万三九一三円とこれに対するじん肺管理区分四と決定された日である昭和五三年二月七日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金、原告鈴木において、昭和五四年五月以降の分の損害の賠償として一億〇一一三万二九九二円とこれに対する管理三ロ、肺結核合併と決定された日である昭和五四年五月二九日から支払済みまで右割合による遅延損害金、原告髙橋において、昭和五四年一二月以降蒙つた損害の賠償として五五八五万八三三一円とこれに対する管理四決定の日の後である昭和五四年一二月三一日から支払済みまで右割合による遅延損害金、昭和五三年一〇月以降の分の損害の賠償として、あるいは災害補償協定により原告永田ヤイ子において二七二四万一九六九円とこれに対する昭和五四年一月一日から支払済みまで右割合による遅延損害金、原告明石まゆみ、同永田美智代及び同永田学において各自一六六九万四六四六円とこれに対する同日から支払済みまで右割合による遅延損害金の各支払を求める。

第三  被告の答弁及び主張

一請求の原因一の事実は認める。

二同二の事実のうち、原告須貝らが従事していた当時の郡山工場におけるマンガン鉄等の生産の基本的な作業工程が主張のとおりであつたことは認めるが、大量の粉じんが発生したことは否認する。

三同三について

原告須貝らが被告会社の仕事に従事していて粉じんにさらされたため主張のとおり健康を害したとの点は否認する。

1は認める。

2は認める。なお原告鈴木の肺結核、右腎結核及び前立腺結核等とじん肺との間に因果関係はなく、かつて同原告が罹患した肋膜炎に起因するものである可能性が大きい。

3は認める。

4の(一)は認める。4の(二)の(1)のうち死亡日は認める。(2)のうち管理区分の決定が留保されたこと、労災補償金が支給されたことは認める。(3)は認める。4の(二)のその余の事実は知らない。

四同四については争う。

亡永田の死因は、アルコールの多飲による肝硬変症を原因とする消化管出血である。またじん肺が肝硬変症を悪化させる要因となり、ひいては亡永田の死因となつたとするのはあまりに間接的であり相当でない。

五同五については争う。

安全配慮義務について

郡山工場において、被告は次に述べる作業環境に関する各種の改善、保護具の支給等労働条件の整備、じん肺安全教育や健康診断を実施してきたもので、安全配慮義務を尽したから、被告には、この点に関する債務不履行はない。

1  作業環境に関する各種の改善

被告は、珪石の粒度管理を徹底し、電炉作業については①チャージングカーの導入、②ポーキング作業の改善、③取鍋加熱方式の開発、さらには④完全集じん装置の実用化などの努力を積み重ねてきたもので、昭和四三年の時点において、世界のどの合金鉄工場よりも合理化され、良好な作業環境を維持していた。ちなみに、じん肺法施行後(昭和三五、六年、四六年、四九年)作業環境状況把握のため、粉じん測定を行つたが、郡山工場の粉じんの数値は、昭和三五、六年当時の粉じんの許容濃度に関する基準である労働省の恕限度(有害業務の認定基準)や昭和四四年に健康に有害な影響が殆んどみられないものとして設定された日本産業衛生学会の粉じんの許容濃度に関する勧告値の範囲内におさまつていた。

2  保護具の支給

昭和三二年ころからスポンジマスクといわれる国家検定合格品の防じんマスクを従業員に支給してきたが、その着用状況は十分ではなかつたので、実態に即した現実的方法として、国家検定品であることを最低条件とし、徐々に上級のマスクに切り替え、昭和五〇年からは特級品マスクを支給するようになつた。

3  じん肺教育及び健康診断の実施

安全衛生及びその教育活動のための組織として、職制と右活動のために特に組織された委員会(工場安全衛生委員会、職場安全衛生委員会)があり、いずれも活発に活動していたもので、じん肺法施行の機会(昭和三五年)に、またじん肺に基づくじん肺健康診断の結果一人の従業員につき管理三の決定通知書を受けた直後(昭和三六年九月)に、さらには右従業員の処遇を検討した際(同年一二月)に、工場安全衛生委員会ないし職場安全衛生委員会でじん肺及びじん肺法の内容、じん肺の予防等についての説明ないし討議を行い、その結果は各職場に掲示され、従業員に周知された。その後も、日常業務の中でマスクの着用の必要性を教育するなど、機会ある度に、じん肺及びその予防の為の啓蒙、教育活動を行つてきた。また、定期健康診断として、一般健康診断、成人病健康診断、特定化学物質等障害予防規則による健康診断を実施するとともに、じん肺健康管理のため、じん肺法に基づくじん肺健康診断を同法施行の翌年(昭和三六年)以来実施してきた。

六同六については争う。

1  原告須貝らの被害の実態等について

(一) 原告須貝

原告のじん肺による症状は、相当の労働能力、生活行動能力を有する状態にあるというべきである。

(二) 原告鈴木

同原告の肺病変の中心は、じん肺というより肺結核であるが、その肺結核については治癒の方向に向かつており、近い将来において完治又は入院を要さない程度に改善される見込みが大きく、また体外膀胱については、現在単に月一回のカテーテル交換のみが行われているにすぎず、入院加療の必要性は遠からず消滅するから、労働能力も回復されるものと思われる。

(三) 原告髙橋

同原告は、昭和五四年一二月一七日付で管理四の決定を受け、労働能力を全く喪失したと主張するが、昭和五四年五月一一日付及び同年一一月二日付の各検査結果はいずれもじん肺法にいう著しい肺機能の障害があるとされる一般的基準に該当せず、また昭和五四年六月一三日珪肺労災病院において胃切除手術を受けており、その後昭和五四年九月二六日から昭和五五年一月一二日まで胃切除術後症等で入院し治療を受けているのであつて、昭和五四年一一月二日の検査に基づいてなされたじん肺管理区分管理四の決定自体極めて問題の存するものである。

(四) 亡永田

亡永田は昭和五三年一〇月二日以前から重い肝臓病(アルコール性肝硬変症)に罹患していたものであり、肝臓疾患による体力低下等の影響が存していたことを考慮すれば、当時から管理四の肺機能低下をきたしていたと認めることはできない。

2  逸失利益の算定について

希望退職等の事情の存する原告須貝らについて、退職時の賃金を基準とすることは相当でなく、地場賃金を基礎とすべきである。

3  労災保険金等の控除

(一) 既給付分

(1) 原告須貝、原告鈴木、原告髙橋がじん肺管理区分管理四等の認定を受けた後、昭和五九年一月分までに受給した労災保険金の額は次のとおりである。

原告須貝 一三二八万四一六六円(休業補償給付三一九万七六〇〇円、傷病補償年金一〇〇八万六五六六円)

原告髙橋 八二七万九六九九円(休業補償給付二九三万二五六六円、傷病補償年金五三四万七一三三円)

原告鈴木 一〇七一万五五九五円(休業補償給付三三一万八二四五円、傷病補償年金七三九万七三五〇円)

(2) また被告は、原告須貝に対し、昭和五三年四月九日より一〇月七日までの間に休業補償として二五万三四〇〇円、賞与として六九万八三一四円、合計九五万一七一四円を支払つた。

(3) 従つて、右各原告に対する既給付分をそれぞれその逸失利益額から控除すべきである。

(二) 将来給付分

労災保険金の控除は過去分のみならず将来の分についてもなされるべきである。原告らが受領している給付金は将来も給付されることが保証されており、しかも満六七歳を超えて死亡まで継続して支給されるものである。

4  過失相殺

被告は、従業員に対し粉じん曝露防止のため防じんマスクを支給し、その着用を義務付けるとともに、機会ある毎に教育、監督、勧告等により従業員がマスクを着用するよう最大限の努力をしてきた。しかるに原告らは防じんマスクの着用を十分励行していなかつたもので、仮に原告らのじん肺罹患が郡山工場の粉じん作業に起因するとしても、もし被告の注意に従つて防じんマスクを着用していれば、じん肺罹患を防止し得たとも考えられ、その過失は重大である。右過失を損害額の算定にあたつて斟酌すべきである。

七同七は争う。

1  亡永田の補償請求権の不発生

本協定は、法定の補償に追加されるいわゆる上積み補償を目的として定められたものであり、その中で「治癒したとき」は一二条を、「治癒見込のないとき」は一三条を適用すべきことは、協定の構成上からも明らかであり、亡永田については災害補償協定一二条の適用の余地はないから、同協定に基づく補償請求権は発生していない。

2  補償請求権の消滅

災害補償協定による障害補償請求権は、五年間これを行わないとぎは消滅するとされている(五条三項)ところ、原告永田らは、障害補償請求権を昭和五三年一〇月末日付で確定的に取得したと主張しながらも、その行使については、昭和五八年一二月二二日付原告ら準備書面(七)において初めて行つたにすぎないから、仮りに亡永田に障害補償請求権が発生していたとしても、既に消滅したというべきである。

第四  証拠<省略>

理由

第一  当事者

請求原因一の事実は当事者間に争いがない。

第二  郡山工場における作業環境

一  合金鉄等生産の推移

<証拠>によれば、次の事実が認められる。

郡山工場における合金鉄及び金属珪素の生産は昭和二六年七月から昭和五五年三月までの間、約三〇年に亘つて行われた。すなわち、昭和二六年七月珪素鉄の製造を開始したのを皮切りに、昭和二七年四月には金属珪素、同二八年三月にはマンガン鉄、同年四月にはマンガン珪素の製造が開始されるとともに、逐次電気炉が増設され、さらに昭和三二年四月には金属珪素の量産化を図つて第二工場が建設され、電気炉二基が新設された。その後徐々にシリコン系フェロアロイ及び金属珪素の製造に重点が移り、昭和三七年から昭和三九年にかけてマンガン系フェロアロイの製造が停止され、以後シリコン系フェロアロイ及び金属珪素の製造に一本化された。そして、珪素鉄は昭和四五年一月まで、金属珪素は昭和五三年八月まで、特殊珪素鉄は昭和五五年三月までその製造が続けられた。

二  作業環境

郡山工場の合金鉄、金属珪素の生産工程における作業の基本的流れ及び各作業内容(請求の原因二)並びに原告須貝らの各作業経歴(請求の原因三の1ないし4の各(一))は当事者間に争いがない。

そこで、原告須貝らが従事したことのある作業について、その従事した時期を中心として、それぞれの作業環境をみることとする。

<証拠>によれば、次の事実を認めることができる。

1  鉱石運搬、洗浄作業

(一) この作業には原告鈴木が昭和二九年三月から昭和三一年一月までの間従事した。

(二) 金属珪素の原料となる珪石については、昭和三一年四月に洗浄機(ドラムウォッシャー)が導入される以前から人力による水洗処理が行われており、珪石置場から珪石処理場(洗浄場)への珪石運搬は洗浄作業員が行つていた。珪石の外部からの搬入は安積運輸株式会社等が請負い、被告の従業員が直接関与することはなかつたが、昭和二九・三〇年当時は未だ特定の珪石置場(貯鉱場)が整備されていなかつたため、右運送会社の作業員は洗浄作業員の指示に従つて第一工場地内の倉庫の軒下や道路脇などの空地に一日五、六回、多いときで一〇回位珪石をトラックから荷卸ししていた。珪石にはその粉や乾いた泥が付着していたため、落下時に粉じんが周囲に舞い上がり、荷卸し場所を指示する作業員は粉じんにさらされることがあつた。また、洗浄作業員らは忙しいときなどには珪石置場から洗浄場への運搬の手間を省くため、珪石を積載したトラックを洗浄場の建屋内に入れ、同所で直接荷卸しをさせることがあり、そのため建屋内に粉じんが立ち込め、作業員が粉じんにさらされた。

なお、右当時はまだ防じんマスクが貸与されておらず、作業員らは手ぬぐいで鼻や口を覆つて粉じんを避けていた。

(三) 昭和三二年には第二工場が建設され、珪石が同工場の四側に設けられた珪石置場に荷卸しされるようになつてからは、従業員の作業は監視業務が主体となり、粉じんにさらされることもなくなつた。

2マンガン鉱石の計量配合作業

(一) この作業には、原告須貝が昭和三一年一二月から昭和三八年まで従事した。

(二) 計量作業は、天井の高さ約二メートル、幅約1.5メートルの細長いコンクリート製の建屋内で、天井に一列に設置されている原料貯蔵ビンの開口部から各原料毎に必要量を手動操作によつて移動式計量配合車に落下させて計り取るもので、計量回数は一時間当たり二、三回、一回の採取量は鉱石約三〇〇キログラム、電炉スラグ約三〇〇キログラム、コークスその他二〇〇キログラム、合計約八〇〇キログラムであつた。貯蔵ビンは小高い丘の傾斜を利用して設けられた十数列のコンクリート製の投入溝と貯槽とから構成され、原料であるマンガン鉱石やスラグ等は貯蔵ビンに投入される前約一か月前後の間各原料置場に野積みされており、当日使用分が毎日貯蔵ビンに移送、投入された。雨の少い時期には原料が乾燥しているため、貯蔵ビンから計量車に落下させる際、多量の粉じんが発生し、しかも作業員は計量機の目盛を確認しながら原料を落下させなければならないため、粉じんにさらされた。もつとも作業場の壁には足元の位置に換気口が数箇所設けられていたが、粉じんの滞留は避けられなかつた。

(三) 原料を積んだ移動式計量配合車をスキップホイストまで移動させ、深さ1.5メートル、床面積約四平方メートルのコンクリートで固められた地下ビットに置かれたバケットに計量車の横の口を開けて原料を落下させることにより第一次配合が行われたが、原料が乾燥しているときには落下時に粉じんが発生し、立ち上つてくることがあつた。

(四) バケットに移された原料は更にスキップホイストによつて地上約一〇メートルの高さまで引き上げられた後、鉄管製シュートを通して移送用トロッコに落下させられることにより第二次配合がなされるが、落下時にトロッコ周辺に多量の粉じんが発生した。トロッコには昭和三七年ころまで車輪を固定するストッパーが付いていなかつたため、落下時の衝撃でトロッコが移動しないようもう一人の作業員がこれを手で押さえていなければならず、粉じんを避けられなかつた。

3電炉作業

(一) 本作業には、原告須貝が昭和三八年から昭和四七年までと昭和五〇年から昭和五三年までの間、原告鈴木が昭和二六年七月から昭和二七年四月ころまでと昭和四七年七月から昭和五三年一〇月までの間、亡永田が昭和三〇年四月から昭和五二年七月までの間それぞれ従事した。

(二) 郡山工場で用いられていた電気炉は内径約2.5メートルないし約4.5メートル、深さ約1.7ないし1.8メートルの炉体と、炉内に深く突き出された三本の電極から構成されており、炉体下部の横には金属を流出させるための直径五ないし一〇センチメートル穴(タップ口)か二又は三カ所ほぼ水平に設けられ、また炉の上方には炉内から発生するガス等を屋外に排出するための二本の大きな煙突が設置されていた。炉体は建屋一階に設置され、炉体の最上端から一〇センチメートル位低い位置にコンクリート製の二階床(一階の天井)が構築され、炉床回転式電気炉では炉体と二階床との間に約二〇センチメートル間隔のすき間がドーナッツ状にあいていた。また電気炉建屋の上部には自然通風式ペンチレーター(換気口)が設けられ、熱上昇気流の利用により建屋全体の換気を図る構造になつていた。

(三) マンガン鉄の電炉作業

(1) マンガン鉄製錬用の電気炉は第一工場の一号炉(固定式。四六五〇キロボルトアンペア)であつた。

(2) 建屋二階での上回り作業として、炉体上部に設置されている炉上ビンから約一時間毎にレバーの手動操作により原料を炉内に落下させたうえ、電極の周囲に原料が平均的に行きわたるように人力で原料を押しならす作業、電極にペーストを補給する作業、丸鉄棒を炉内に差し込んでガス抜きをする作業等が行われた。電炉上部からのガスや粉じんは煙突に吸収されるので、炉外へ漏出することは少なかつたが、炉上ビンのレバー操作をする作業員が原料落下時に舞い上がる粉じんにさらされたり、ガス抜きの際に粉じんを含んだガスが炉外に吹き出し、作業員が粉じんにさらされることがあつた。そのため、作業員はスポンジマスクを着用したものの、電炉からの高熱のためにマスクが変形したり、硬化したりし、防じん効果は十分でなかつた。

(3) 下回り作業では、約四時間毎にタップ口を開口して生成した製品とスラグ(反応の不十分な鉱澤)を取り出した。タップの開口は丸鉄棒でタップ口を突いたり、アークを使つてタップ口に詰めてある粘土を熔かす等の方法により行われ、開口時のタップ口からの発じんは通常それ程多くはなかつたものの、上回りで炉内のガス抜きが十分行われていない場合にはタップ口から作業員の方にガスが吹き出し、金属酸化物の煙(金属の蒸気が空気中の酸素と結合してできる微粒子)にさらされることがあつた。タップ口から流出する製品とスラグは湯樋から一旦中間鍋に入つた後、スラグは自然にスラグ鍋に流れるようになつており、約五ないし一〇分で流出が終わると作業員はタップ口を閉口し、中間鍋に残つているスラグを棒でかいてスラグ鍋に移し、製品を製品鍋に流し込む作業をした。湯出し中はタップ口、湯道及び鍋から金属酸化物の煙が大量に発生した。タップ口や湯道からの煙は天井をはつてその末端から二階に上り、その一部は電炉の熱上昇気流に誘引されて煙突に吸収され、残りは建屋内を上昇してベンチレーターから排出され、また天井のない鍋からの煙は真上に上昇してベンチレーターから排出される仕組になつていたが、煙突の吸引力は天井に遮られて滅殺されるため、大量の煙が速やかに二階へと流れることなく、天井下に層となつて滞留し作業員の頭部付近まで達することもあつた。そのため作業員らは建屋内の通風を長くするため東西側の窓を開けたり、ガラスを破るなどして換気に努めた。湯出し時間が前記のように短かかつたことから、長くその場を離れることができなかつたため、作業員はタップ閉口作業までの間、休憩することなくタップ口付近で流出状況を監視し、スラグが固まつて湯通りが悪くなつたときには棒でスラグをかき出すなどの作業をし、大量の粉じんにさらされることがあつた。

(四) 珪素の電炉作業

(1) 珪素鉄製煉用の電気炉は六号炉(固定式。三六〇〇キロボルトアンペア)であつた。

(2) 上回り作業では、マンガン鉄の場合と同様のガス抜き作業のほか、四〇分ないし一時間間隔で丸鉄棒で炉内の原料を突き落とすポーキング作業、スコップで原料を炉内に平らに、投げ入れる作業が行われた。その際の作業環境はマンガン鉄の場合とほぼ同様であつた。

(3) 下回りでは、二、三時間毎にマンガン鉄の場合と同様の方法でタップの開口作業を行い製品を取鍋に流出させた。湯出し時間は一〇分程度で、その間作業員はタップ口付近で流出状況を監視したり鍋中の製品に浮いている少量のスラグをかき寄せる作業を行つた。タップ口や湯道、鍋から金属酸化物が発じんするが、その量はマンガン鉄に比べると少なかつた。粉じんは最終的には煙突やベンチレーター等から屋外に排出された。

(五) 金属珪素の電炉作業

(1) 金属珪素用の電気炉は、昭和三二年に設置された七、八号炉(いずれも固定式で六〇〇〇キロボルトアンペア。但し、七号炉は昭和四〇年に、八号炉は昭和三九年にそれぞれ炉床回転式に改造された。)、昭和三七年に増設された九号炉(炉床回転式で六五〇〇キロボルトアンペア)及び昭和四三年に増設された一〇号炉(炉床回転式で一万〇二〇〇キロボルトアンペア)であつた。

(2) 電炉上回りでは、主に炉内への原料の装入と電極周辺に形成される反応帯壁(クレータークラスト)の一部を炉内に突き落とすポーキング作業が行われた。右各作業は高温下で人力によつて行われ、ことにポーキング作業の際には炉内で生成されたシリコンモノオキサイドガスが急激に炉外に吹き出して、作業員が多量の珪酸じんにさらされることがあつた。しかしその後昭和三七年、九号炉にわが国で初めてチャージングカーが導入され、更に昭和四〇年ころにかけて七、八号炉にも順次導入されたので、それまで人力に頼つていた原料装入及びポーキング作業が機械化され、作業員は上回りでの高熱と粉じんから遮断された。

(3) 電炉下回りでは、主として、約三時間毎にタップ口を開口して取鍋に製品を流出させた後タップ口を閉口し、その後取鍋内の製品をクレーンで鋳型の中に傾注し、縦、横約一メートル、高さ約四〇センチメートルの鋳塊とする作業が行われた。

タップの開口はアークを使用して行われたが、開口時にタップ口からシリコンモノオキサイドガスが急激に吹き出して作業員が珪酸じんにさらされることがあつた。湯出中はタップ口、湯道、取鍋から発じんがあるが、マンガン鉄や珪素鉄の場合に比べると少く、その大部分はタップ口の真上辺りの天井にあいている五〇センチメートル四方程度の穴を通つて(固定炉の場合)又は天井と電炉との間のドーナツ状のすき間を通つて(回転炉の場合)二階の煙突に吸い込まれたり、天井をはつてその末端から二階へ上り煙突やベンチレーターから屋外へ排出された。湯出しには約一時間かかり、作業員はその間原則としてタップ口付近を離れて他所の仕事をしたり、休憩室で待機していたが、その間二、三回、タップ口や湯道にたまつたスラグを生木の枝で除去する作業を行い、また、タップ閉口用の粘土をこねたり、前回使用された他のタップ口にスタンプペーストを打つ作業(スタンプ回し)をしたり、他の流し(湯道の通る部分)に固着している金属珪素やスラグをたがねで削り取る作業を行うため、湯出し中のタップ口付近に居て、タップ口や湯道等からの粉じんにさらされることがあつた。タップ口付近には防熱用の扇風機が置かれていたものの、湯出し中は湯の温度が低下するのを防ぐため停止させていた。

(4) 被告は金属珪素の電炉下回り作業において、昭和三七年ころ日本で初めて取鍋加熱方式(従来、直接鋳型に受湯していた金属珪素を取鍋という中間鍋に一旦受け、湯出しの間、取鍋を重油バーナーで加熱し続ける方式)を開発した。これによつて鋳塊が飛躍的に清浄化され、その後の仕上工程の機械化が可能となつたが、反面受湯中、金属珪素を加熱し続けるため、珪酸じんが発生し続けるとともに、バーナーから煙が発生した。

(5) 郡山工場の合金鉄製造が最盛期を迎えた昭和三七年当時、電炉からは一日合計約五ないし六トンの粉じんや媒じんが屋外に排出され、その後金属珪素及び珪素系合金鉄に一本化されてからも粉じん量は一日四トンを下らず、付近住民の生活にも悪影響を与え粉じん公害として問題となつた。そこで被告は昭和三六年から始めていた集じんに関する研究成果をもとに、昭和四五年一〇月、世界初のバッグフィルター式集じん装置を完成させ、これを一〇号炉に装置して昭和四六年五月から本格的試用に入り、更に昭和四七年六月、七及び八号炉を停止して九及び一〇号炉の二基体制になつてからは、九、一〇号炉用として運転することになつた。この集じん装置は、従来使用されてきた電炉の煙突を閉鎖してその途中に横行導管を接続して排風機により排煙を吸収して凝集機を通した粉じんをグラスバッグフィルターでろ過する構造になつており、これにより一〇号炉の煙突から大気中に排出される粉じん量は大幅に抑制された。しかし他方で、右集じん機は一〇号炉一基のみの場合は、七〇パーセント程度の能力で運転しても集煙できたものの、九、一〇号炉両方では集煙能力が必ずしも十分ではなく、むしろ集じん機設置前よりも劣化し、しかも集じん機設置に伴つて屋外への排じん防止のため工場建屋の窓にすべてガラスを入れて閉鎖したため、工場内の作業環境は以前よりも悪化した。

(6) 被告は金属珪素の電炉内で生成するシリコンモノオキサイドガスが過剰に発生するのを抑制してシリコン収率を高めるとともに、電極周りからの右ガスの吹き出しを防止し珪酸じんの発生を抑える目的から、珪石の粒度を比較的大きめ(一〇ないし一五〇ミリメートル)に管理する努力を続けた。

4研掃作業

(一) 本作業には原告髙橋が昭和三四年九月から昭和五三年一〇月まで、原告鈴木が昭和四〇年四月から昭和四七年六月までの間従事した。

(二) サンド室という独立した部屋の中で、ホースから圧縮空気とともに猛烈な勢いで吹き出される海砂利の小粒を金属珪素の鋳塊表面に吹き付けて不純物を除去する作業(サンドプラスト)である。作業中密閉されたサンド室内には大量の粉じんが発生し、これを除去するための排風機(排風量毎分一六〇立方メートル。昭和四三年以降は毎分二四〇立方メートル。)が設置されていたものの、作業中は粉じんのためサンド室内が全く見えなくなる程で、作業員は海砂利が鋳塊に衝突するときに発生する火花と経験による勘に頼つて作業を行つていた。作業時間は一個当たり約一五分で、一直(八時間)で一二、三個研掃した。

作業中、作業員は防じんのためサンド服という帆布製のつなぎの服と頭部全体を覆う帆布製の防じん面(目の部分はガラス窓で、首元をひもで結ぶようになつていた)を着用し、防じん面の頭頂部には内径約七ミリメートルのエアホースが接続されており、これにより防じん面内に空気を送り、呼吸用の新鮮な空気を確保するとともに防じん面のガラスが吐息でくもるのを防ぎ、また防じん面内を外部に対して加圧状態にし、粉じんが首回り等のすき間から防じん面内に侵入するのを防止することを企図していた。研掃用の空気と防じん面用の空気の送出は一五〇キロワットのコンプレッサー一台で賄われ、防じん面の方には毎分二〇〇リットルの空気が送り込まれるよう調整されていたが、現実には研掃作業中の防じん面への送気は、粉じんの侵入を完全に防止するほど十分ではなく、作業が終わつて防じん面を脱ぐと作業員の顔全体が粉じんで汚れていた。そのため作業員は、防じん面の下に更にスポンジ製の防じんマスクをしたり、タオルで口を覆つたりして粉じんを防ぎ、被告も研掃作業員に対し、防じんマスクの着用を勧めていた。なお、防じん面への送気量を確保するため一時エアホースを太いものと交換したこともあつたが、作業中ホースの重みで防じん面がずれるという欠点があつたため、再び元の細いホースを使用するようになつた。

(三) 昭和四九年一〇月、それまでのサンドブラスト方式に代えてショットブラストマシンが導入され、研掃作業の改善が図られた。

5試料調整作業

(一) 本作業には原告鈴木が昭和三一年一月から昭和四〇年四月までの間従事した。

(二) これは、郡山工場で入荷した原料(珪石、マンガン鉱石、コークス、石炭、木炭等)及び出荷する製品のすべてについて、その成分を分析するための試料を作る作業で、その手順は入荷した原料から約五〇キログラムの試料を採取し、屋外のクラッシャー(破砕機)でタバコ箱大の大きさに破砕してその半分を試料調整室に運び入れたうえ、まずジョークラッシャーで約二センチ大に破砕したうえ、これを二人の作業員がスコップで混合し、次にその中から円錐四分法で約一〇キログラム採取してロールジョークラッシャーで約五ミリメートル大に破砕し、更にその中から二分器により一キログラムを採取してディスクパルプライザーで一ミリメートル以下に粉砕したうえ約二〇〇グラムの試料量に縮分し、最後にこれをメノー乳鉢で微粉末にすりつぶして五グラムずつ薬包紙に包むというものである。

クラッシャーの容量は比較的小さかつたものの、次々と乾燥している原料を投入し続けるため、その間に開口部等から発生する粉じんは少なくなかつた。しかも、他種類の原料を破砕するたび毎に、直前に破砕した原料の粉を破砕機から除去しなければならない。その方法としてクラッシャーを運転しながら空気で吹き飛ばしていたため、粉じんが舞い上がつた。そして、右のような連続作業はそれぞれ分担が決まつており、しかも原料の種類が多いため次々と分析材料を作つていかなければならなかつたため、クラッシャーはほぼ間断なく運転され、その間作業員はそのそばを離れることはできず、大量の粉じんにさらされた。

調整室は、横八間、縦四間の本造建屋で、出入口一個と約一間四方のガラス窓が東側に四か所、南側に五か所、先側に一か所あるほか屋根には自然通風式ベンチレーターが設置されていたものの、発生する粉じんを速やかに屋外に排出することはできなかつた。

以上の事実を認めることができ、<反証排斥略>、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

第三  原告須貝らのじん肺等罹患の経過及び症状

一  じん肺について

<証拠>によれば、じん肺の病像について次のとおり認められる。

すなわち、吸入された粉じんは、一部は気管支に付着し痰にまじつて喀出されるが、肺胞内に達したものは喰細胞により肺間質に取り込まれ、リンパ腺に蓄積されてこれを線維化させその本来の機能を失わせる。更に肺胞内への吸入、沈着が続くと肺胞腔内にも線維ができて固い結節となり(エックス線写真像では粒状影となつて現われる)肺胞壁が閉塞する。結節は吸じん量の増加に伴つて増大し、次第に塊状巣となつて気管支や血管を狭窄、閉塞して呼吸困難の原因となる気管支変化や、血管変化を惹起し、更には必然的に肺気腫を生じさせる。このような粉じん変化に伴つて肺胞への空気の流通が妨げられたり(換気障害)、肺胞と血管との間でのガス交換が不十分となつたり(ガス拡散障害)、血行の障害(肺循環障害)が現われ、最終的には心負担の増大による心衰弱(肺性心)を起こして致命的状態に至る。このようにじん肺は進行性の疾患であるとともに、線維化した部分、肺気腫、血管変化は治療によつても元に戻ることはなく(不可逆性変化)、気管支変化だけが早期の治療に反応する。したがつて、じん肺の進展阻止のためには粉じん防止のほか気管支炎の早期治療が唯一の方法とされている。

また、じん肺では肺結核が高率に併発し易いほか、続発性気胸等の合併症や、気管支炎、肺炎、肺化膿症等の感染症、肺がんも多い。

二1原告須貝

前記第二、第三の一で認定した事実のほかに、<証拠>によると次の事実を認めることができる。

(一) 原告須貝は、郡山工場でマンガン鉱石の計量配合作業及び電炉作業に従事中粉じんを吸引したことにより、じん肺に罹患した。すなわち、同原告は昭和四〇年代初期から咳や痰の自覚症状が出、昭和四五年ころからは咳や痰の回数が増加して恒常的になり、昭和五〇年ころからは一輪車を押したり重い物を持つたりすると身体のだるさを覚え、息切れするなど体力が急速に低下し、同年及び翌五一年にはいずれもじん肺管理区分管理二となつた。更に昭和五二年八月二六日のじん肺健診での胸部エックス線撮影及び同年一〇月五日の心肺機能検査の結果により、エックス線写真像が第二型で、じん肺による高度の心肺機能障害等の症状があると診断され、翌五三年二月七日付で管理四と決定された。そのため、同月以降毎月一回栃木県にある珪肺労災病院に通院するようになつたが、昭和五四年一月、呼吸困難の激しい発作に襲われ、その後も同様の発作を繰り返したため、同年二月一九日から同年六月一九日まで同病院に入院した。以来、昭和五五年五月一二日から同年六月一九日まで、昭和五八年一月二六日から同年三月九日までと入退院を繰り返し、現在も月二回の割合で同病院に通院している。

(二) 同原告の昭和五二年八月二六日撮影のエックス線写真によれば、従前の写真では明確でなかつた心臓の変型(右心が上から下にかけて肥大)及び肺気腫が認められるようになり、昭和五四年三月七日撮影のエックス線写真では不整形陰影が更に密度を高め、昭和五六年四月八日の写真では気管支変化の進行を示す輪状影が広範囲且つ明確に認められており、じん肺の進行がうかがわれる。また昭和五九年一月の珪肺労災病院医師による診断では、既に肺性心によると思われる所見も確認されている。

(三) 同原告について昭和五六年二月に実施された肺機能検査の結果は、「①一秒率87.5%、②%肺活量73.6%、③v25/身長0.53l/sec/m④肺胞気動脈血酸素分圧較差13.27TORR」というものであつた。ところで肺機能検査結果の判定にあたつては、一秒率が48.59%未満(但し、五八歳の男性)の場合、%肺活量が六〇%未満の場合、v25/身長が0.56未満(五八歳の男性)で、且つ呼吸困難の程度が第Ⅲ度、第Ⅳ度又は第Ⅴ度の場合の三つの場合のうちいずれか一つに該当するときは、一般に、「著しい肺機能障害がある」と判定し、また肺胞気動脈血酸素分圧較差の値が35.98TORR(五八歳)を超える場合には諸検査の結果と合わせて一般的には「著しい肺機能障害がある」と判定する、との基準がある。これに照らすと、同原告の場合、右時点では右①、②及び④はいずれも比較的良好であり、ただ細気管支における通気障害の程度を示す・v25/身長のみ右基準を若干下回つているといえる。同原告は管理四と決定された後も、気分の良い時は喫煙することがあり、これが細気管支に悪影響を及ぼしていることも考えられる。

(四) 昭和五六年二月付診断書では、同原告は「日常生活の状況」についてすべて「可」とされ、乗物や徒歩で病院に通つたり、平地をゆつくりした速度で一キロメートル程度以上歩くことができる、ごく軽い趣味程度の仕事を一時間程度以上続けることができる、他人の手を借りず又は借りて排便できる、他人の手を借りずに着物を脱着したり、寝たり起きたり、洗顔や食事ができる等相応の行動能力は保持されており、昭和五七年秋には十和田湖方面に、また昭和五八年八月には東京に小旅行をしている。

2原告鈴木

(一) 上記第二、第三の一で認定した事実のほか、<証拠>によれば、次の事実を認めることができる。

(1) 原告鈴木は、郡山工場で鉱石運搬、洗浄作業、研掃作業、電炉作業に従事中、粉じんを吸引したことによりじん肺に罹患した。すなわち、昭和四五年六月一五日撮影のエックス線写真像は第二型(粒状影密、P型)で、かくたんの自覚症状がみられ、すでにじん肺の所見がみられ、同年一一月二五日及び昭和四六年七月二三日の健康診断で「陳旧性肺結核」(不活動性の肺結核)があるとされ、更に昭和四八年八月一〇日実施のじん肺健診におけるエックス線写真による検査では、粒状影(一型、P型)のほか肺結核像(tb)が認められ、結核精密検査の結果不活動性の結核ありと判定された。その後昭和五一年八月二七日撮影のエックス線写真像では3/2不整形陰影のほか肺尖部に結核を疑わせる像が認められた。昭和五三年春ころから咳や黒つぽい色の痰が出るほか、階段を昇るときなどに息切れを感じるようになり、退職した同年一〇月ころから夜咳のため眠れないことがしばしばあり、昭和五四年に入ると歩行時に呼吸が苦しくなり、また体力の衰えを感じたので、同年四月一一日及び一三日の両日、寿泉堂香久山病院で検査を受けたところ、その結果は、「①エックス線写真による検査=第三型(粒状影3/3r型、不整形陰影2/3大陰影A)、pl(胸膜変化)、plo(胸膜石灰化像)、bu(ブラ)、ov(空洞)、tb(肺結核)、②胸部臨床検査=呼吸困難Ⅲ、せき、たん、ばち状指、③合併症検査=結核菌陽性(GⅢ)、左右肺尖部にかなり進展した空洞像、右肺中間部にブラ像が認められる、④肺機能検査=一秒率80.8%、%肺活量64.3%、」というもので、主治医により比較的長期の入院加療が必要であると診断され、同月一三日右病院に入院した。

右検査に基づいて、同年五月二九日、管理三ロ、肺結核合併と決定された。

(2) 同原告は、昭和五四年四月一三日以来現在まで香久山病院に入院して肺結核を中心とした治療を受けてきたが、その間の病状の経過は以下のとおりである。

(イ) 昭和五五年一〇月六日付の診断によれば、①昭和五五年六月三日撮影のエックス線写真像は入院開始当時と同様であり、②同年一〇月六日実施の胸部臨床検査では、呼吸困難Ⅲ、せき、たんの自覚症状あり、③同日付合併症検査では、排菌はないが、左右肺尖部になお空洞が認められ、④同日付肺機能検査では、一秒率84.4%、%肺活量71.7%であつたが、諸検査の結果を総合してF()(著しい肺機能障害あり)と判定された。

(ロ) 昭和五六年二月一〇日付の診断によれば、①エックス線写真(昭和五五年一二月一日撮影)による検査及び胸部臨床検査の結果は右(イ)とほぼ同様であり、②昭和五六年二月一〇日実施の合併症検査では排菌なく、左右肺尖部に空洞があるが、右中肺野の巨大ブラは消失したとされ、③同日実施の肺機能検査では、一秒率94.7%、%肺活量56.1%でF()と判定された。

(ハ) 昭和五七年二月七日付の診断においては、①昭和五六年九月二日撮影のエックス線写真による検査及び昭和五七年二月四日付胸部臨床検査の結果は前記(ロ)と同様であり、②昭和五六年九月二日付の合併症検査は排菌なく、左肺尖部の空洞は著明に縮少し、右肺の空洞は消失したとされ、③昭和五七年二月二日付肺機能検査結果は一秒率九五%、%肺活量67.2%で、諸検査の結果を総合してF()と判定された。

なお、この間の昭和五六年九月一六日に至つて左腎が石灰化しており、また右腎結核及び前立線結核が併発していることが判明したため、同年一〇月一三日、寿泉堂綜合病院秘尿器科において右腎瘻造設術が施行され、それ以来原告鈴木は体外膀胱を使用し、毎月一回カテーテルを交換しなければならない状態が続いている。

(ニ) 昭和五八年一月一七日付の診断では、①エックス線写真(昭和五七年一一月一日撮影)による検査及び胸部臨床検査の結果は前回とほぼ同様であり、②合併症検査では排菌はなく、右肺尖部の病巣は硬化に向かい、空洞像不明となつたとされ、③昭和五八年一月七日実施の肺機能検査結果は一秒率97.3%、%肺活量六〇%で、F()と判定され、腎機能の低下もあるので予後に注目したいとされた。

(ホ) 昭和五八年五月二日撮影のエックス線平面写真では、肺尖部の空洞像は不明であり、断層写真では左右肺尖部に空洞像の跡が見えるものの良くなつてきている。

(二) ところで、被告は原告鈴木の肺結核、腎結核、前立線結核は、いずれもじん肺とは無関係に発症したものであると主張するので、以下検討するに、<証拠>によれば、①原告鈴木は被告に採用されて間もない昭和二六年一二月ころ肋膜炎に罹患し、翌二七年四月ころから入院療養した結果治癒し、昭和二九年四月から郡山工場に復帰したこと、②肋膜炎が往々にして結核より生ずること、③その後昭和四五年一一月の健康診断で「陳旧性肺結核」(不活動性肺結核)ありと診断されたこと、④昭和五六年九月左腎が石灰化しており、かなり以前より結核に罹患していた可能性があること、⑤一般にじん肺有所見者の結核合併率は極めて高く、じん肺剖検例の結核合併率は従来の報告では五〇ないし六〇%、近年の報告では四〇ないし四二%とされている程であり、そのため肺結核はじん肺の最も重要な合併症としてじん肺の健康管理対策上高い比重を占め、じん肺法上も特に合併症として規定されていること(同法二条一項二号、同法施行規則一条)、⑥じん肺結核の特徴として、活動性の決定が難かしく、また剖検例では軽症じん肺ないし初期じん肺に結核の合併率が高く、また進展例も多いと報告されていること、以上の事実が認められ、右事実及び前記(一)の認定事実を総合すると、原告鈴木はかねてより結核におかされていたところ、その後じん肺に罹患したことにより、結核が増悪し、肺結核、腎結核、前立線結核と症状が進行したものと認めるのが相当である。

3原告髙橋

(一) 前記第二、第三の一で認定した事実のほか、<証拠>によると、以下の事実を認めることができる。

(1) 原告髙橋は、郡山工場で研掃作業に従事中粉じんを吸入したことによりじん肺に罹患した。すなわち、昭和四五年及び昭和四八年のじん肺検診では末だじん肺所見は確認されなかつたが、昭和五一年のじん肺健診でエックス線写真の像が第一型で呼吸困難(第Ⅱ度)を訴え、更に昭和五三年三月ころから咳や痰が出て、息切れを感じるようになつたため、坪井病院で受診したところ喘息と診断され、約一カ月間入院したものの症状は改善されないため、同年六月星総合病院で二次性貧血との診断で約一カ月間入院し、更に同年九月には太田綜合病院付属さが乃病院で肺結核と診断され、昭和五四年二月二八日までの約六カ月間入院した。

(2) 昭和五四年五月一日及び同月一一日の両日、珪肺労災病院で検査を受けたところ、その結果は、①エックス線写真像は、粒状影3/2、g型、②胸部臨床検査では、呼吸困難第Ⅳ度、咳、痰、心悸充進あり、③肺機能検査では、一秒率82.6%、%肺活量82.2%、・v25/身長0.67l/sec/m、肺胞気動脈血酸素分圧較差3.57TORRというもので、医師により「肺の硬化及び拡散障害あり。管理四相当と認める。」との意見が付され、直ちに入院加療が必要であると指示されたため、同月二八日から同年七月二六日まで同病院に入院した。

右検査結果に基づき、同年八月二二日付で、管理三ロの決定がなされた。

(3) 昭和五四年一一月二日、同病院において再度じん肺に関する検査を受けた。その結果は、①エックス線写真による検査では、粒状影3/2、g型、②胸部臨床検査では、呼吸困難第Ⅲ度、核、痰、心悸充進あり、③肺機能検査では、一秒率95.1%、%肺活量68.6%、・v25/身長0.73l/sec/m、肺胞気動脈血酸素分圧較差1.93TORR、④合併症検査では、右上肺に気胸の所見がある、というものであつた。

以上の検査結果に基づきじん肺管理圧分認定の申請がなされたところ、同年一二月一七日付で管理四の決定がなされた。

(4) 同原告は、その後昭和五五年四月一七日から同年五月二一日まで、昭和五六年九月四日から同年一〇月二六日まで、前記病院で入院療養をし、更に昭和五八年一一月一〇日同病院に入院して現在に至つている。

(5) 同原告の最新のエックス線写真(昭和五六年四月撮影)では、右肺上野に気胸の後にしばしば起こる肋膜の肥厚があり、また肺気腫、心臓の変化が認められる。

(二) なお、被告は、前記(一)の(2)、(3)の検査結果は、いずれも著しい肺機能障害ありと判定すべき一般的基準を満たしていないこと、右(3)の検査は原告髙橋の胃切除術後間もない時期になされたものであつて、当時の肺機能障害の程度を正確に反映していないことを理由として、管理四の決定は疑問であると主張するが、<証拠>によれば、肺機能検査結果の判定にあたつては、著しい肺機能障害ありとすべき基準がもうけられているものの、肺機能検査によつて得られた数値を右基準値に機械的にあてはめて判定することなく、その他の諸検査の結果等をも含めて総合的に判断する必要があるとされており、右基準に該当しない場合でも医師が総合的な評価に基づいて著しい肺機能障害があると判定することも当然許されること(なお、その場合にはじん肺健康診断結果証明書中の「医師意見」欄にその具体的事由を記入することとされている。)、同原告の昭和五一年八月撮影のエックス線写真像では、すでに心臓の変化(右心房の突出)及び肺気腫の徴候が認められ、昭和五四年五月のエックス線写真像では、更に左右肺に輪状形が認められ、気管支変化が進んでいることがうかがわれるとともに、心臓の変化は右心室にまで拡がつており、胸部臨床検査における呼吸困難Ⅳ度という結果に照らしても、心臓に相当大きな負担がかかつていると推測できること、昭和五四年一一月の検査時には、肺気腫が進行して一部で肺気胸が起こつていたのであるが、気胸は一般に肺気腫が著名な重症じん肺患者に起こりやすく、また致命率も高く、幸い治癒しても肋膜肥厚などのため予後は不良であるとされており、同原告についても肋膜肥厚が確認されていることが認められ、以上の事実及び前記(一)で認定した事実によれば、昭和五四年五月の肺機能検査結果が基準に該当しないにもかかわらず著しい肺機能障害があるとし、管理四相当とした担当医師の判断は不相当とはいえず、また、同年一一月の検査結果に基づく管理四相当との判断も、右検査が胃切除術後に実施されたものであることを考慮してもなお是認しうるものであつて、原告髙橋は昭和五四年五月、ないし遅くとも同年一一月当時にはすでに管理四として療養を要する状態にあつたと認めるのが相当である。

4亡永田

(一) 前記第二、第三の二で認定した事実のほか、<証拠>によれば、以下の事実を認めることができる。

(1) 亡永田は郡山工場で電炉作業に従事中粉じんを吸入したことによりじん肺に罹患した。すなわち、昭和四二年のじん肺健診ですでに管理二となり、昭和四五年のじん肺健診ではエックス線写真像は第二型で、かくたんの自覚症状がみられ管理一となつた。

(2) 昭和四六年からは身体をすこし激しく動かすとだるさを訴えるようになり、青山医院に通院を始め、同年秋ころには喘息のような咳も出始めた。

(3) 昭和四七年一月二六日から同年四月二七日まで肝炎兼高血圧症により右医院に入院し、退院後も通院治療を続けていたが、再度の入院を勧められたため、昭和四八年一〇月六日、寿泉堂綜合病院で受診し、肝機能検査を受け、更に同月一八、一九日に入院して肝生検を受けた結果、アルコール性の肝硬変症と診断された。

(4) 昭和五〇年二月ころから階段の昇りで息切れするようになり、同病院で受診したところ、肺活量二三七六ミリリットル、一秒率86.4%で、中等度の肺機能障害が認められた。また、その際亡永田が黒つぽい便を訴えたため、検査した結果、胃前庭部に「びらん」が確認された。

なお、同年九月のじん肺健診ではエックス線写真像第一型で管理二とされた。

(5) 昭和五一年八月二七日撮影のエックス線写真像は粒状影第二型で密と判断され、管理二とされた。

(6) 同年一一月一五日、頭痛、めまい、息切れ、心窩部の膨張感を訴え、寿泉堂綜合病院で受診したところ、肝臓の拡大(四横指硬く触れる)、下腿浮腫、軽度の腹部膨隆(腹水は明確でない)の所見があり、検査の結果胃角部に胃潰瘍が認められ、同月一九日から翌五二年一月一四日までの間、胃潰瘍、肝硬変症、じん肺症で同病院に入院した。なお、同月六日の胃内視鏡検査では、右潰瘍は瘢痕化したものの食道下部に静脈瘤が確認された。

(7) 亡永田は、昭和五二年夏電炉作業から守衛業務に配置転換されたが、このころには自宅前の坂道を自転車に乗つて登ることができず、引いてゆつくり帰つてくる状態であつた。同年八月二七日のじん肺健診ではエックス線写真像が粒状影第三型で著しく密、心肺機能検査では連動指数三五%であり、管理二とされたが、エックス線写真像ではこの当時すでに心臓の肥大が認められ、特に右心部に負担がかかつていると推測される状態であり、また肺気腫、気管支変化の所見もうかがわれる。

(8) 翌五三年八月二八日撮影のエックス線写真では、気管支変化の進行を示す輪状影の増加が認められるほか、心臓の異常(co)、著明な肺気腫(em)が確認された。また同日の胸部臨床検査では、呼吸困難(第Ⅲ度)のほか、心肺機能の低下を示すばち状指や頻脈がみられた。更に、同年一〇月一二日及び一二月一一日実施の肺機能検査の結果は次のとおりであつた。

一〇月一二日

一二月一一日

一秒率(%)

九〇・九

八七・四

%肺活量(%)

五二・六

五〇・八

・v25/身長(ℓ/sec/m

一・〇五

〇・九九

以上の諸検査の結果に基づき、担当医はF()と判定し、「じん肺による肺機能障害あり。又それによる臨床症状(せき、動悸、息切れ等)もみられる。その他バチ状指、頻脈あり」との意見を付した。

(9) 亡永田は、昭和五三年一〇月七日被告を退職したが、その後一層咳や痰、息切れが激しくなり、同年一二月ころからは体力が急激に衰え、自宅で寝ていることが多くなつた。そうするうち、腹部膨満、食思不振、咳嗽、喀痰、呼吸困難の症状がひどくなつたため、昭和五四年二月一九日寿泉堂総合病院で受診したところ、胸部にラ音を聴取、腹水及び下腿浮腫が著明にて直ちに入院し、気管支肺炎、兼じん肺症、肝不全(肝破変症)で治療を受けたが、同年三月三日、約一〇〇〇ミリリットルの吐血をし、消化管出血により死亡した。

(10) 亡永田については、前記(8)の検査結果に基づきじん肺管理区分決定に関する申請がなされたが、同人の死亡により決定に至らなかつた。

(二) 亡永田の死亡とじん肺との因果関係について

原告永田らは、亡永田の死亡とそのじん肺との間に因果関係が存する旨主張しているので、この点につき判断する。

前記(一)で認定した事実及び<証拠>によれば、亡永田は若いころより酒を好み、長年大量に飲酒していたところ、昭和四八年一〇月アルコール性の肝硬変に罹患していることが判明し、その後症状が悪化するにつれ、昭和五二年一月には食道下部静脈瘤の存在が確認され、昭和五四年二月には腹水が顕著となり、病状も極めて重い状態となり、同年三月三日遂に肝硬変症に基づく消化管出血のため大量の吐血をして死亡するに至つたことが認められ、<反証排斥略>、他に右認定を左右する証拠はない。

右事実によれば、亡永田の死因は長年にわたる飲酒に基因する肝硬変症であるのであつて、じん肺ではないとみるのが相当である。

なお、原告永田らは、じん肺に合併して生じた感染症としての気管支肺炎が肝硬変を悪化させる要因となつているから、亡永田の死亡とじん肺との間に因果関係が存する旨をも主張しているが、証人解良魄の証言によれば、感染症である気管支肺炎が肝硬変症を悪化させる一つの因子となりうるという程度のことに過ぎないとのことであり、またアルコールという肝硬変症の明確な原因がある以上、右主張は単に臆測の域を出ないものといわざるをえない。

したがつて、原告永田らの右主張は容れることができない。

第四  被告の責任

一  被告の安全保護義務

1雇傭契約のもとにおいては、通常の場合、労働者は使用者の指定した労務給付場所に配置され、使用者から提供された設備、機械、器具等を用いて労務の給付を行うものであるから、雇傭契約に含まれる使用者の義務は、単に報酬の支払に尽きるものではなく、信義則上、右提供にかかる諸施設から生ずる危険が労働者に及ばないよう労働者の安全を保護する義務も含まれているものと解するのが相当である。

2ところで、<証拠>によると、じん肺、とりわけけい肺は古くから粉じん作業に特有の、最も重要な職業病として知られ、昭和三〇年にはいわゆるけい肺法(「けい肺及び外傷性せき随障害に関する特別保護法」同年法律第九一号)が制定され、更に昭和三五年には、対象をけい肺に限らず広く鉱物性粉じんによるじん肺に拡げたじん肺法(同年法律第三〇号、昭和三七年、同四二年、同四三年、同四七年、同五二年に順次改正)が制定されたことが認められる。同法はその五条において「事業者及び粉じん作業に従事する労働者は、じん肺の予防に関し、労働安全衛生法及び鉱山保安法の規定によるほか、粉じんの発散の防止及び抑制、保護具の使用その他について適切な措置を講ずるように努めなければならない。」(なお、労働安全衛生法二二条、六五条、労働安全衛生規則五七六条、五八二条、五八七条、五九三条、五九六条)と規定し、その六条において「事業者は、労働安全衛生法及び鉱山保安法の規定によるほか、常時粉じん作業に従事する労働者に対してじん肺に関する予防及び健康管理のために必要な教育を行わなければならない。」(なお、労働安全衛生法五九条、六〇条、労働安全衛生規則三五条、三六条等)と規定するなどしてじん肺の予防と健康管理の措置の充実を図つている。また、労働安全衛生法の実施のため制定された粉じん障害防止規則(昭和五四年労働省令第一八号)では、事業者の責務として、「事業者は、粉じんにさらされる労働者の健康障害を防止するため、設備、作業工程又は作業方法の改善、作業環境の整備等必要な措置を講ずるように努めなければならない。事業者は、じん肺法及びこれに基づく命令並びに労働安全衛生法に基づく他の命令の規定によるほか、粉じんにさらされる労働者の健康障害を防止するため、健康診断の実施、就業場所の変更、作業の転換、作業時間の短縮その他健康管理のための適切な措置を講ずるよう努めなければならない。」(一条)と規定している。

3そこで、被告の安全保護義務の具体的内容につき考えるに、郡山工場における合金鉄等の製造工程では前記のように粉じんが発生し、従業員がこれを吸入することによりじん肺に罹患するおそれがあつたもので、被告においても郡山工場の作業の性質、環境、じん肺防止に関する立法の経過等に照らし右結果の発生を予見することは優に可能であつたというべきである。したがつて、被告としては従業員を前記各作業に従事させるに際し、具体的な安全保護義務として、可能な限り粉じんの発生や拡散を防止し、あるいは発生した粉じんを除去するための措置を講じ、また作業手順や作業方法の改善、労働時間の短縮等従業員の粉じん曝露の程度を軽減するための措置、更には発生した粉じんの吸入を防止するための措置を講ずるほか、従業員各自のじん肺防止や健康管理に対する意識、行動を涵養するため、じん肺の発症原因、じん肺に罹患した場合の症状、性質(進行性、不可逆性で治療困難であること)を踏まえた安全教育及び安全指導を実施し、また定期的に健康診断を実施するとともに、その結果に基づいて従業員の健康管理上必要な措置を採るべき義務があつたものというべきである。

二  被告の安全保護義務違反

1郡山工場における作業環境、発じんの状況は、前記第二の二で認定したとおりであり、<証拠>によれば、次の事実が認められる。

(一) 防じんマスクの支給について

被告は、その製造工程に粉じん作業が伴なつていたにもかかわらず、当初防じんマスクを支給せず、昭和三二年に至つてスポンジマスク(DR二二型)を支給し始めたものの、このマスクは当時の国家検定の四種合格品(昭和三〇年労働省告示第一号「防じんマスクの規格」参照。同告示は防じんマスクの種類を低濃度用及び高濃度用のそれぞれについて一種から四種までとし、その規格を定めているが、四種はろじん効率が最低である。)で、電炉作業場で発生する珪酸じんに対しては必ずしも十分な効果を有しないばかりか、電炉からの高熱のために変形したりスポンジが硬化して短期間で使用が困難となつたり防じん効果が低下するなど電炉作業には適さなかつたものである。昭和三七年に防じんマスクの規格が大巾に改められたのに伴い、被告はそのころから一時サカヰ一一七型(国家検定二級合格。)や同一二六型(級外品を一部で導入し、あるいは電炉作業用としてゴム弁付マスクを支給したこともあつたが、右ゴム弁付マスクは高熱や汗によりゴム弁が粘着性を帯びて作動しにくくなるため電炉作業用としては適さず、また作業員が吸気抵抗の高い上級マスクに馴染みにくなつたこともあつて、その後も昭和四五年ころまで前記スポンジマスクを使用させていた。その後昭和四六年ころからサカヰ一〇〇九型マスク(国家検定二級合格品)に徐々に切り替えられ、昭和四九年まで郡山工場の各粉じん作業における主要なマスクとして使用されたが、その間昭和四八年から特級マスクが一部試用され始め、昭和五〇年ころから本格的に使用されるようになつた。

(二) じん肺教育及び健康管理について

(1) 郡山工場においては、職制を通しての教育、指導監督あるいは機械設備の点検整備等が行われたほか、工場安全衛生委員会、職場安全衛生委員会を組織され、これらが、従業員の教育等に役立てられた。昭和三五年じん肺法施行の際に、工場安全衛生委員会や、各職場安全委員会でじん肺及びじん肺法に関する報告、説明、討議がなされるとともに、じん肺予防の為防じんマスク着用の必要性が確認され、翌三六年三月に実施された第一回じん肺健診の結果、従業員の武田文秀についてじん肺管理区分管理三の決定がなされたのを機に、同年九月の定例工場安全衛生委員会で主任安全衛生管理者によつてじん肺の内容、粉じん恕限度、予防対策等に関する報告、説明がなされ、更に同年一二月一二日、二五日の同委員会では右武田の処遇を検討するにあたつて、じん肺法の関係条文の抜すい、福島県労働基準局長のじん肺健康管理区分決定通知書写しが資料として印刷配布され、じん肺法の内容等に関する説明討議がなされた。被告は昭和三五年及び同三六年の右じん肺教育によつて全従業員がじん肺について充分理解したものと考えて、翌三七年以降はマスク着用の徹底化、じん肺健診の実施に力点を置くこととし、従業員各自に「安全衛生心得」というパンフレットを配布して、防じんマスクの着用を呼びかけ、また安全衛生週間には医師や労働基準監督署々長等を講師に招いて、安全衛生に関する講話の中でじん肺予防のためのマスク着用の必要性について触れてもらつたり、労務ニュースの中で保護具の着用を奨励するなどし、また職場パトロールを実施して保護具の着用状況を点検した。被告は毎年度の安全衛生管理計画の中で安全衛生に関する年間目標を掲げているが、じん肺や鼻中隔穿孔等の「職業性疾患の絶滅」が年間目標として掲げられたのは、被告栗山工場におけるクロム酸塩等による職業病の発生が問題とされるようになつた後の昭和四七年度が初めてであり、それ以前は労働災害の防止に重点が置かれており、従業員の安全衛生に関する意識昂揚のための標語やポスターも労災事故防止に関するものが殆んどで、じん肺防止を主眼としたものはなかつた。他方原告須貝らを含む従業員は粉じんが身体に有害であり、そのため防じんマスクを着用してその吸入を防止する必要があるという程度のことは理解していたものの、それ以上に、じん肺に罹患した場合の症状、じん肺は進行性、不可逆性の疾患で、一旦じん肺性変化が始まると有効な治療方法のない深刻な疾患であること、郡山工場で発生する粉じんは珪酸じん等の極く微細な金属酸化物が主体であつて肺胞まで到達しやすく、したがつてその吸引を防ぐためにはタオル等で口や鼻を覆つても余り意味はなく、防じんマスクの着用が不可欠であることについての理解、認識が不十分であり、そのため従業員の殆んどは、作業中防じんマスクを常時首から下げていたものの、作業のやり易さを優先させ、実際に着用するのは特に粉じんの激しい場面のみで、それ以外はタオルを口や鼻にあてることで代用したり、全く何も着用せず、特に電炉作業は高熱下の作業であつてマスクを着用すると直ぐに息苦しくなるため、不着用の場合が多かつたというのが実情であつた。職制上、作業現場で直接従業員に対し防じんマスクの完全着用を指導し監督すべき立場にあつた伍長すらも、自らマスクを着用していなかつたり、右のような実情を黙認し、原告須貝が管理四に決定される以前はマスク着用に関する日常の指導監督を十分行つていなかつた。

(2) 被告は、原告須貝について昭和五〇年及び昭和五一年実施のじん肺健診の結果それぞれ管理二の決定がなされ、また亡永田については昭和五〇年、同五一年及び同五二年の各じん肺健診の結果いずれも管理二の決定がなされたが、当時電炉作業に従事していた同人らに対し引き続き電炉作業に従事させていた。

<反証排斥略>、他に右認定を左右する証拠はない。

2右認定の事実によれば、

(一) 被告は、防じん措置として、① 珪石の運搬・洗浄作業について、第二工場が建設される昭和三二年以前においては、入荷した珪石の貯鉱場所を予め特定しておいて、作業員がトラックから珪石を卸す際作業員の立入を禁止したり、洗浄場建屋内へのトラックの立入を禁止したり、② マンガン鉱石の計量作業について、貯蔵ビン中の原料を常に湿潤な状態に維持して粉じんの発生を抑えたり、さらには計量工程を密閉化したり、③ 電炉の下回り作業について、とりわけ発じんの多かつたマンガン鉄の場合には、タップ口付近に二階の煙突に直結する吸気ダクトを設けたり、発じんの比較的少なかつた珪素鉄ないし金属珪素の電炉においても、湯出し中は原則としてタップ口付近への立入を禁止したり、④ 研掃作業について、防じんのため必要にして十分な防じん面への送気量を確保するための措置を講じたり、サンドプラストでは郡山工場での各作業中とりわけ発じんが多く、サンドプラスト従業者には重症じん肺患者が多いとされていることに鑑み、同一従業員を短期間で他の作業へ転換したり、⑤ 試料調整作業について、クラッシャーを密閉化したり、局所排気装置を設けたり等し、発じんそのものの抑制、発じん場所への従業員の立ち入り禁止、発じん個所の密閉化、粉じんの排出、あるいは適切な労務管理等を図り、もつて従業員を粉じんの曝露から防止すべきであつたのに、これを怠つたものといわなければならない。

(二) 被告は、創業当初既に防じんマスクの規格が定められており(昭和二五年労働省告示第一九号)作業員に適切な防じんマスクを支給すべきであつたのに、その支給開始が遅れ、その後支給された防じんマスクは作業場によつては必ずしも有効でなかつたにもかかわらず、より上級のマスクを導入する努力も十分でなかつたばかりか、防じんマスクの規格が改訂された後も長期にわたつて右防じんマスクを支給し続け、更には、特級又は一級のマスクを使用すべきであるとされている鉱石破砕作業を伴う作業場においても昭和四九年当時二級マスク(サカヰ一〇〇九型)を支給していたものであり、作業員らが作業のし易さを優先させ、スポンジマスクや二級マスクの方を好み、吸気抵抗の大きい上級マスクに馴染みにくかつたことを考慮してもなお被告の防じんマスクに関する対応は立ち遅れていたといわざるを得ず、結局適切な防じんマスクを支給することを怠つたものといわなければならない。

(三) 被告は、従業員に対し、種々の機会を通じて防じんマスクの着用を呼びかけ、その指導に努力してきたことはうかがわれるが、しかしその指導の実効性を担保すべきじん肺教育については、昭和三五年及び同三六年に初めてまとまつた教育がなされたとはいうものの、それが必ずしも各従業員にじん肺に関する十分な理解をもたらさず、従つて防じんマスク着用の必要性を各人に自覚させ、積極的に着用する姿勢を育てるまでに至らず、現に作業現場ではマスクの着用状況が極めて不充分であつたうえ、伍長による指導監督体制も十分な機能を果たしていなかつたにもかかわらず、既に十分な理解に達したと速断して、その後は右のような教育をくり返すことなく推移したものであつて、被告のじん肺教育は不十分であつたといわざるを得ないのであり、また原告須貝、亡永田につきじん肺罹患の事実が判明したのちも引き続き粉じんにさらされる危険性のある作業に従事させるなど従業員の健康管理面での手落ちもあつたことも明らかである。

三  結論

以上によれば、被告は安全保護義務に違反し、その結果原告らをじん肺に罹患させたことが明らかであるから、原告らに対し、雇傭契約上の債務不履行として、これによつて生じた損害を賠償すべき責任があるというべきである。

第五  損害

一  逸失利益

1原告須貝らの労働能力喪失率について

(一) 原告須貝

同原告の年令・職歴、じん肺罹患の経過、現症状等を総合考慮すると、同原告が休業し始めた昭和五三年四月九日(成立に争いがない甲第一四号証の二により認められる。)には症状固定し、その労働能力喪失率は一〇〇%とみるのが相当である。

(二) 原告鈴木

同原告の年令・職歴、じん肺罹患の経過、現症状のほか、肺結核については徐々に治療効果が現われているものの、一般に、けい肺結核は単なる肺結核に比べて極めて難治なうえ、再発率が高く、相当期間の療養観察が必要とされること(<証拠>)及び腎障害の状況並びに結核の発病そのものが、じん肺の発病に先行していること等を考慮すると、同原告は、管理三ロ、肺結核合併の認定を受けた昭和五四年五月の始めまでには症状固定し、労働能力を喪失していたが、じん肺による労働能力喪失率は七〇%と認めるのが相当である。

(三) 原告髙橋

同原告の年令・職歴、じん肺罹患の経過、現症状等を総合考慮すると、昭和五四年一二月一日までに症状固定し、労働能力を一〇〇%喪失していたものと認めるのが相当である。

(四) 亡永田

亡永田の死因は前記のとおり、アルコール性の肝硬変症であり、原告永田らの請求のうち逸失利益に関する部分は昭和五三年一〇月一日以降についてのものであるところ、右時点において亡永田は既にアルコール性の肝硬変症により、労働能力を喪失していたものと認めるのが相当である。

2逸失利益算定の基礎額について

<証拠>によれば、昭和四〇年からの貿易自由化、昭和四七年のいわゆるニクソンショックによる経済情勢の悪化、いわゆるオイルショック後の電力料金の高騰等により昭和五二年ころから我国の代表的な金属珪素メーカーが相ついでその生産を中止するに至り、被告においても生産中止を決定し、約八ヵ月間に亘る労働組合との交渉の末、昭和五三年九月に至り余剰人員については新会社の設立や他事務所への配転により雇傭の確保を図ることとするが、現実に配置転換に応じられない者については六〇%の割増付退職金支払の条件で希望退職を募集することとなり、右縮小計画が実施されたこと、すなわちまず同年九月二五日から一〇月一日までの間配置転換に応じられない者のために希望退職を募つたところ、原告髙橋はこれに応じて通常退職金五六三万一七四〇円のほか割増退職金二〇八万三三六五円を受け取り退職したこと、次いで、同月七日までに同じく原告鈴木は通常退職金四七四万〇八八五円のほか割増退職金二五四万三六〇七円を、亡永田は通常退職金四三五万五六三〇円のほか割増退職金二三〇万三〇四九円をそれぞれ受け取り退職したこと、原告須貝は、既に管理四の決定を受け療養中であつたため、希望退職募集の対象外とされていたが、同原告の希望により、同じく希望退職扱いとされ、通常退職金五六〇万六一八九円のほか割増退職金二〇六万八七七七円が支払われたこと、以上のとおり認めることができ、<反証排斥略>、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

右に認められる退職時の経済環境、原告須貝らが希望退職を選択するに至つた経緯よりすれば、原告須貝らはいずれも自己の意思により希望退職を選択したものというべきであり、逸失利益の算定にあたつては在職時の賃金ではなくて、地場産業、なかでも福島県内の製造業賃金水準を基準として算出することが相当である。

3原告須貝らの逸失利益現価

(一) 原告須貝(大正一一年六月一八日生)はじん肺により労働能力を一〇〇%喪失して昭和五三年四月九日以降休業し、同年一〇月七日退職したもので、退職後は満六七歳に達するまでの間就労可能と認める。そこで、在職中の昭和五三年四月九日から同年一〇月七日までは成立に争いがない乙一二〇号証の一によつて認められる在職時の賃金水準に基づき、また同月八日以降の分については、成立に争いのない乙第九六号証によつて認められる福島県内の製造業における中学卒の年齢階級別、勤続年数別の平均賃金に基づき、ホフマン方式により中間利息を控除した逸失利益現価を計算すれば、別表(五)のとおり一二二四万一二一六円となる。

(二) 原告鈴木(昭和六年一〇月二日生)は、昭和五四年五月一日の時点で、じん肺により労働能力を七〇%喪失し、原告髙橋(大正一〇年一二月一五日生)は、同年一二月一日の時点でじん肺により労働能力を一〇〇%喪失していたものであるが、じん肺に罹患していなければいずれも以後満六七歳に達するまで就労可能というべきであるから、前記乙第九六号証によつて認められる福島県内製造業の中学卒年齢階級別、勤続年数別平均賃金に基づきホフマン方式により中間利息を控除した逸失利益現価を計算すると、別表(六)(原告鈴木)及び別表(七)(原告髙橋)のとおり、原告鈴木につき一五四五万六三〇四円、原告髙橋につき九七三万四四四八円となる。

(三) 亡永田(昭和三年九月二二日生)は、昭和五三年一〇月一日の時点で既にアルコール性の肝硬変症により労働能力を喪失していたことは前叙のとおりであり、同日以降じん肺に基づく労働能力の喪失を認めることはできないから、逸失利益はなかつたものである。

二  慰謝料

これまで認定した原告須貝ら各自の病状、療養の期間、療養態度、年齢、家族の状況、その他諸般の事情を考慮すると、原告らの肉体的苦痛を慰謝するに足りる金員として、原告須貝及び原告鈴木については各七〇〇万円、原告髙橋については一〇〇〇万円、亡永田については六〇〇万円をもつて相当と認める。

三  過失相殺について

なお、原告須貝らがじん肺に罹患したことの一因として被告から防じんマスクを支給され、その着用を命じられていたにもかかわらず、これを遵守しなかつた等の事情を挙げることができないでもないが、その主たる原因が防じん措置、防じんマスクの支給、じん肺教育、健康管理等の点の不十分さにあつたことが明らかであり、大企業である被告と、その従業員に過ぎない原告須貝らとの関係を考慮すれば、原告須貝らに、過失相殺に供されるような落ち度があつたとみるのは相当でない。

したがつて、この点についての被告の主張を容れることはできない。

四  損害の填補

1既給付分の労災保険金等の控除

<証拠>によれば、原告らは次のとおり労災保険金等の給付を受けたものであるから、これを前記逸失利益領より控除すべきである。

(一) 原告須貝

総計 一一七五万四五四七円

(1) 労災保険金として合計一〇八〇万二八三三円

(内訳)

休業補償 二三九万八二〇〇円

傷病補償年金 八四〇万四六三三円

(2) 被告が同原告に対し昭和五三年四月九日から同年一〇月七日までの間に支給した合計九五万一七一四円

(内訳)

休業補償金 二五万三四〇〇円

賞与 六九万八三一四円

(二) 原告鈴木

労災保険金として合計八六九万五五二五円

(内訳)

休業補償 二四八万八八二五円

傷病補償年金 六二〇万六七〇〇円

(三)原告髙橋

労災保険金として合計六六八万六一六八円

(内訳)

休業補償 二一九万九五六八円

傷病補償年金四四八万六六〇〇円

なお、右のほかに原告須貝らにおいてそれぞれ「特別支給金」を受給していることが認められるが、「特別支給金」は、その目的が被災した労働者の福祉の増進を図ることを目的とするものであつて、単にこうむつた損害の填補を目的とするものではないから、損害額から控除されるべきものではない。

2将来給付予定の労災保険金の控除について

被告は将来給付されることの明らかな労済保険金についても逸失利益額から控除すべきであると主張するが、保険給付額を損害額から控除するのは現実に保険金の給付がなされて損害が填補された場合に限られ、未だ現実の給付がなく、したがつて損害の填補がなされていないときは、これを損害額から控除すべきではないから、被告の右主張は採用できない。

3したがつて、亡永田を除く原告須貝らの逸失利益残額は次のとおりとなる。

(一) 原告須貝 四八万六六六九円

(二) 原告鈴木 六七六万〇七七九円

(三) 原告髙橋 三〇四万八二八〇円

五  原告永田の相続と固有の慰謝料請求について

1原告永田ヤイ子は亡永田の妻、原告明石まゆみ、原告永田美智代及び原告永田学はいずれも亡永田の子であることは当事者間に争いがない。そうすると同原告らは法定相続分(但し、昭和五五年法律第五一号による改正前の民法第九〇〇条を適用)に従つて亡永田の前記損害賠償請求権を相続により取得したから、各自の相続額は原告永田ヤイ子につき、二〇〇万円、原告明石まゆみ、原告永田美智代及び原告永田学につきそれぞれ一三三万三三三三円となる

2原告永田らは、亡永田の妻ないし子として固有の慰謝料を請求している。しかしながら、同原告らの本訴請求は亡永田と被告との間の雇傭契約上の債務不履行(安全保護義務違反)に基づくものであるところ、右雇傭契約上の当事者でない原告永田らが右債務不履行により固有の慰謝料請求権を取得するものとは解しがたいから、同原告らの右主張は容れることができない。

六  弁護士費用

弁護の全趣旨によれば、原告らは報酬としていずれもそれぞれの請求額の約一割を本訴第一審判決言渡時に原告らの訴訟代理人に支払うことを約したことが認められる。そして、原告らが本訴を提起し、これを遂行するうえで、弁護士に依頼することは原告らの権利を擁護するうえで必要やむを得ない措置であつたと認められ、これによる支出のうち、本件事案の複雑困難性、請求額、認容額、その他諸般の事情を斟酌して、本訴認容額の一割の金員は、本件債務不履行と相当因果関係に立つ損害として被告が賠償義務を負うべきものである。そうすると原告らについて認容すべき弁護士費用相当額は次のとおりである。

原告須貝 七四万八六六七円

原告鈴木 一三七万六〇七八円

原告髙橋 一三〇万四八二八円

原告永田ヤイ子 二〇万円

原告明石まゆみ、原告永田美智代、原告永田学一三万三三三三円

七  遅延損害金の起算日について

被告の責任は雇傭契約上の債務不履行に基づくものであり、一般に債務不履行に基づく損害賠償義務は期限の定めのない債務として、履行の請求を受けた時にはじめて遅滞に陥るものであつたところ、<証拠>によれば、原告須貝については昭和五四年九月二〇日付通知書の、原告鈴木及び原告髙橋については本訴状の原告永田らについては昭和五四年一一月七日付通知書の各送達をもつて前記損害の履行の請求がなされたものと認められるから、遅延損害金の起算日は、原告須貝については右通知書送達の日の翌日である昭和五四年九月二二日、原告鈴木及び原告髙橋については本訴状送達の日の翌日である昭和五五年六月一七日、原告永田らについては右通知書送達の日の翌日である昭和五四年一一月九日ということになる(なお、弁護士費用についての遅延損害金の起算日は前記六で認定した事実からは本判決言渡の日の翌日となる。)。

第六  原告永田らの災害補償協定に基づく災害補償請求について

<証拠>によれば、被告と日本電工労働組合連合会との間で、昭和五一年七月二一日に締結された災害補償協定(労働協約付則)によりじん肺の場合についてもその時点で存している心肺機能障害の程度に応じ、右第一二条所定の各等級(一級〜七級)に準じて障害補償が支給されるべきものと解されるが、他方右協定の第五条三項では「この協定による補償請求権は療養補償・休業補償および葬祭料については二年間、障害補償および遺族補償については五年間これを行なわないときは消滅する。」と定められていることが認められる。

したがつて、亡永田は右協定に基づき遅くとも退職した昭和五三年一〇月当時、その障害程度に応じた障害補償請求権を取得し、これを原告永田らが承継取得したものであるところ、原告永田らが昭和五八年一二月二二日の口頭弁論期日において初めて被告に対し右請求の意思表示をしたのであるから、右時点では既に五年の経過により前記補償請求権は消滅していたものというべきである。

したがつて原告永田らの災害補償協定に基づく請求は理由がない。

第七  結論

よつて、被告は、原告須貝に対し八二三万五三三六円と内金七四八万六六六九円に対する昭和五四年九月二二日から、内金七四万八六六七円に対する本判決言渡の日の翌日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による遅延損害金を、原告鈴木に対し一五一三万六八五七円と内金一三七六万〇七七九円に対する昭和五五年六月一七日から、内金一三七万六〇七八円に対する本判決言渡の日の翌日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による遅延損害金を、原告髙橋に対し一四三五万三一〇八円と内金一三〇四万八二八〇円に対する昭和五五年六月一七日から、内金一三〇万四八二八円に対する本判決言渡の日の翌日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による遅延損害金を、原告永田ヤイ子に対し二二〇万円と内金二〇〇万円に対する昭和五四年一一月九日から、内金二〇万円に対する本判決言渡の日の翌日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による遅延損害金を、原告明石まゆみ、原告永田美智代、原告永田学に対しそれぞれ一四六万六六六六円と各内金一三三万三三三三円に対する昭和五四年一一月九日から、各内金一三万三三三三円に対する本判決言渡の日の翌日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による遅延損害金を支払うべき義務があることが明らかであり、原告らの本訴請求は右の限度において正当であるから、その範囲でこれを認容し、その余はいずれも失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条一項但書を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

(井深泰夫 堀田良一 三浦州夫)

別表(一) (原告須貝関係)

年齢

期間

年収

ホフマン係数

賃金現価

56

昭和53.4~54.3

3,401,922

3,401,922

57

昭和54.4~54.9

1,700,961

1,700,961

昭和54.10~55.3

1,360,768(退職前80%)

1,360,768

58~62

昭和55.4~59.3

(4年間)

2,721,537(同上)

10,886,148

62~67

昭和59.4~64.3

2,721,537

4.3643

11,877,603

29,227,402

別表(二) (原告鈴木関係)

年齢

期間

年収

ホフマン係数

賃金現価

48

昭和54.5~55.4

3,614,503

3,614,503

49

昭和55.5~56.4

3,831,373(年6%の上昇)

3,831,373

50

昭和56.5~57.4

4,061,255(同上)

4,061,255

51

昭和57.5~58.4

4,304,930(同上)

4,304,930

52

昭和58.5~59.3

(口頭弁論終結時)

(4,563,226年6%の上昇)

4,182,957(上記の11ケ月分)

4,182,957

53

昭和59.4~60.3

4,837,019(年6%の上昇)

0.9523

4,666,293

54

昭和60.4~61.3

5,127,240(同上)

0.9090

4,660,661

55

昭和61.4~62.3

5,434,874(同上)

0.8695

4,725,623

56

昭和62.4~63.3

5,760,966(同上)

0.8333

4,800,613

57

昭和63.4~64.3

6,106,623(同上)

0.8000

4,885,299

58

昭和64.4~65.3

4,885,298(停年時の80%)

0.7692

3,757,771

59

昭和65.4~66.3

同上

0.7407

3,618,540

60

昭和66.4~67.3

同上

0.7142

3,489,079

61

昭和67.4~68.3

同上

0.6896

3,368,901

62

昭和68.4~69.3

同上

0.6666

3,256,539

63

昭和69.4~70.3

同上

0.6451

3,151,505

64

昭和70.4~71.3

同上

0.6250

3,053,311

65

昭和71.4~72.3

同上

0.6060

2,960,490

66

昭和72.4~73.3

同上

0.5882

2,873,532

73,203,175

別表(三) (原告髙橋関係)

年齢

期間

年収

ホフマン係数

賃金現価

58

昭和54.12~55.4

(3,207,911)

1,069,303(退職前の80%、5ケ月分)

1,069,303

59

昭和55.5~56.4

2,566,328(退職前の80%)

2,566,328

60

昭和56.5~57.4

同上

2,566,328

61

昭和57.5~58.4

同上

2,566,328

62

昭和58.5~59.3

2,352,468(80%、11ケ月分)

2,352,468

63

昭和59.4~60.3

2,566,328(80%)

0.9523

2,443,914

64

昭和60.4~61.3

同上

0.9090

2,332,792

65

昭和61.4~62.3

同上

0.8695

2,231,422

66

昭和62.4~63.3

同上

0.8333

2,138,521

67

昭和63.4~64.3

同上

0.8000

2,053,062

22,320,466

別表(四)(亡永田関係)

年齢

期間

年収

ホフマン係数

賃金現価

50

昭和53.10~54.3

(3,562,573)

1,781,286(6ケ月分)

1,781,286

51

昭和54.4~55.3

(3,776,327年6%の上昇)

2,643,429(30%の生活費控除)

2,643,429

52

昭和55.4~56.3

(4,002,906同上)

2,802,034(同上)

2,802,034

53

昭和56.4~57.3

(4,243,080同上)

2,970,156(同上)

2,970,156

54

昭和57.4~58.3

(4,497,664同上)

3,148,365(同上)

3,148,365

55

昭和58.4~59.3

(4,767,523同上)

3,337,266(同上)

3,337,266

56

昭和59.4~60.3

(5,053,574同上)

3,537,502(同上)

0.9523

3,368,763

57

昭和60.4~60.9

(停年)

(2,678,394年6%の上昇、6ケ月分)

1,874,875(同上)

}0.9090

3,067,670

昭和60.10~61.3

(2,678,394同上)

1,499,900(停年時の80%、生活費控除30%)

58

昭和61.4~62.3

(4,285,430停年時の80%)

2,999,801(生活費控除30%)

0.8695

2,608,327

59

昭和62.4~63.3

同上

0.8333

2,499,734

60

昭和63.4~64.3

同上

0.8000

2,399,840

61

昭和64.4~65.3

同上

0.7692

2,307,446

62

昭和65.4~66.3

同上

0.7407

2,221,952

63

昭和66.4~67.3

同上

0.7142

2,142,457

64

昭和67.4~68.3

同上

0.6896

2,068,662

65

昭和68.4~69.3

同上

0.6666

1,999,667

66

昭和69.4~70.3

同上

0.6451

1,935,171

43,302,225

別表(五)  原告須貝

(大正11年6月18日生)

年齢

期間(昭和.年.月.日)

勤続

年数

基礎収入額(円)

ホフマン係数

現価(円)

56

53.4.9~53.10.7

(3,401,922×182/365)=1,696,301

1,696,301

57

53.10.8~54.10.7

0

(114,497×12)=1,373,964

0.9523

1,308,426

58

54.10.8~55.10.7

1

(128,655×12)=1,543,860

0.9090

1,403,369

59

55.10.8~56.10.7

2

(129,778×12)=1,557,336

0.8695

1,354,104

60

56.10.8~57.10.7

3

(107,194×12)=1,286,328

0.8333

1,071,897

61

57.10.8~58.10.7

4

同上

0.8000

1,029,062

62

58.10.8~59.10.7

5

(108,076×12)=1,296,912

0.7692

997,585

63

59.10.8~60.10.7

6

同上

0.7407

960,623

64

60.10.8~61.10.7

7

同上

0.7142

926,255

65

61.10.8~62.10.7

8

同上

0.6896

894,351

66

62.10.8~63.6.17

9

(108,076×12×253/365)=898,955

0.6666

599,243

逸失利益現価=(①~⑪の総和)=12,241,216円

別表(六)  原告鈴木

(昭和6年10月2日生)

年齢

期間(昭和.年.月.日)

勤続

年数

基礎収入額(円)

ホフマン係数

現価(円)

47

54.5.1~55.4.30

0

137,532×12=1,650,384

0.9523

1,571,661

48

55.5.1~56.4.30

1

142,053×12=1,704,636

0.9090

1,549,514

49

56.5.1~57.4.30

2

157,423×12=1,889,076

0.8695

1,642,552

50

57.5.1~58.4.30

3

126,803×12=1,521,636

0.8333

1,267,979

51

58.5.1~59.4.30

4

同上

0.8000

1,217,309

52

59.5.1~60.4.30

5

148,153×12=1,777,836

0.7692

1,367,511

53

60.5.1~61.4.30

6

同上

0.7407

1,316,843

54

61.5.1~62.4.30

7

同上

0.7142

1,269,730

55

62.5.1~63.4.30

8

同上

0.6896

1,225,996

56

63.5.1~64.4.30

9

同上

0.6666

1,185,105

57

64.5.1~65.4.30

10

161,714×12=1,940,568

0.6451

1,251,860

58

65.5.1~66.4.30

11

同上

0.6250

1,212,855

59

66.5.1~67.4.30

12

同上

0.6060

1,175,984

60

67.5.1~68.4.30

13

111,247×12=1,334,964

0.5882

785,226

61

68.5.1~69.4.30

14

同上

0.5714

762,798

62

69.5.1~70.4.30

15

116,419×12=1,397,028

0.5555

776,049

63

70.5.1~71.4.30

16

同上

0.5405

755,094

64

71.5.1~72.4.30

17

同上

0.5263

735,256

65

72.5.1~73.4.30

18

同上

0.5128

716,396

66

73.5.1~73.10.1

19

116,419×12×154/365=589,431

0.5000

294,716

逸失利益現価=①~⑳の総和×0.7=22,080,434×0.7=15,456,304

別表(七)  原告髙橋

(大正1O年12月15日生)

年齢

期間(昭和.年.月.日)

勤続年数

基礎収入額(円)

ホフマン係数

現価(円)

58

54.12.1~55.11.30

0

114,497×12=1,373,964

0.9523

1,308,426

59

55.12.1~56.11.30

1

128,655×12=1,543,860

0.9090

1,403,639

60

56.12.1~57.11.30

2

106,339×12=1,276,068

0.8695

1,109,541

61

57.12.1~58.11.30

3

107,194×12=1,286,328

0.8333

1,071,897

61

58.12.1~59.11.30

4

同上

0.8000

1,029,062

62

59.12.1~60.11.30

5

108,076×12=1,296,912

0.7692

997,585

63

60.12.1~61.11.30

6

同上

0.7407

960,623

64

61.12.1~62.11.30

7

同上

0.7142

926,255

65

62.12.1~63.11.30

8

同上

0.6896

894,351

66

63.12.1~63.12.14

9

108,076×12×14/366=49,609

0.6666

33,069

逸失利益現価=①~⑩の総和=9,734,448

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